京都大学文学部に入学したのが1956年(昭和31)、当時新入生は総数120名、1クラス40名で、第2外国語(英語、独語、仏語)の選択によってクラスが分けられ、私は独語のクラスで、通称L2と称していた。名簿では消息不明も物故者もいるが、職業欄を見ると、大半が大学の教師か高校の教師、あるいは新聞社ということになっており、その当時の文学部卒業生がどういうコースを辿ったかが分かる。
3回生で、各専攻に分かれて行くが、2年間一緒に過ごしたクラスということがあって、まとまりがよい。今日でも大学の同窓会を開いているが、この教養部時代のクラスで行っており、その時代に教えを受けた独語の先生を招いて、旧交を温めている。
当時の京大では、教養部の1回生は宇治の分校に通わねばならなかった。大半の学生は、宇治周辺に下宿をしていた。近くに遊郭で有名だった中書島があった。1956年(昭和31)5月には売春防止法の公布があって、遊郭は転業を迫られていた。手っ取り早く学生下宿に転業する業者も現れた。さっそくそこに下宿を決めた友人を訪ねたことがあるが、部屋の内装というか、天井にまで彩色された画がなまめかしく、こんな部屋で落ち着いて勉強できるのかな、と尋ねたことがある。
私は、大阪阿倍野区の松虫に住んでいたから、通えないことはなかったが、京都市内に下宿したくて仕方がなかった。家を出てみたかったのである。兄の紹介で河原町丸太町に、賄い付きの下宿を早々と決めたが、長くは続かず、外食で過ごす下宿に引っ越した。東1条の八百屋さんの2階で、京大の時計台が間近に見えた。時計台が見えるのが自慢だったし、学校が近かったので、よく友だちが出入りした。
この当時の下宿は、夏は扇風機、冬は火鉢があるだけであった。洗濯は、衣類を洗濯板に押しつけてこするという方法だった。たばこは「憩い」、飲む酒は清酒なら2級、ウィスキイーならトリスぐらいのもので、余分のお金がなかった。
文学部に入って何をするのか。私は高校時代から同人雑誌『我記』というのを仲間と作って、評論めいたものを書いており、将来は作家になるか、シナリオライターになるか、そんなことを夢みていた。大学に入ると、高校時代からの仲間が教育学部に入っていたので、語らって、同人グループを作ろうと宇治分校で呼びかけた。ポスターの呼びかけで8人が集まった。初顔合わせであったが、意気投合して新しい文学サークルを作ることになった。途中で部員の出入りがあって、詳細は思い出せないが、最後まで6人が同人であり続けた。工学部の学生が一人いたが、彼は後に文学部(英文科)に転部した。学部別では、教育学部が一人いて、他は皆文学部であった。
グループの名前は、『ネリパ』(新文学団)と名付けられた。メンバーは、いずれも未来の作家、評論家、シナリオライターを夢見ていて、新しい文学集団を樹立せんとする意欲をもっていた。日本の文学状況を変えてみせんと志は高かった。ネリパというのは、ネオ・リテラリー・パーティーの略で、私たち同人はこの名前が気に入って、新しい風を起こすのだと元気があった。雑誌の発行と読書会を行うという形で活動を続けた。
記念にと思って保存しておいたのであろう、創刊号が見つかった。日付は、1956年(昭和31)12月15日となっている。創刊の辞「声明」を読んでみると、これから天下に打って出ようとするまことにに勇ましい「声明」で、まさに青年の覇気が溢れ出た文章と言える。その一部を紹介しておこう。
「近代文学の歴史は文学流派の歴史である。文学運動の歴史である。(略)この雑誌が新しい文学運動の実験の場として認識され、単に文壇出世の踏み台として意識されてはならないことである。文壇小説を文壇の現状をいたずらに反映して既成の文学に挑みかかろうとする主張がなくては、苦しい財源の中から雑誌を出す意味はないと考える。(略)我々の暗中模索が、我々の実践が、そして我々の小さな、しかし偉大な価値を有するであろう真理の実践が、やがて一つの新しい契機となって、時代の文学に何物かを付加え、飛躍と変革をもたらさんことを欲するのである。革命的なロマンチスズムに陶酔することなく、単に文学青年の集団に堕することなく、(略)我々の主体性を確認し決して空中に楼閣を築くことなく、常に足下をみつめて、我々はここに文学を更には、世界を探求して行き、自己の文学的理想の確立につとめ、その「精神の可能性の具体化」を指向するものである。」
『ネリパ』は3号(昭和32年12月16日発行)まで発行して終わった。同人の仲間が分裂してとかの理由ではなくて、原稿が集まりにくくなっていって、そうなったようである。一方での読書会は、不定期ではあったが卒業まで続けていたように思う。私にとっては、『ネリパ』は、志の実現はともかくとして、文章を書くこと、本を読むことの勉強の場になったことは確かである。