第8回 夢を見て過ごす

 中学3年生頃から、私は兄の影響であろうと思う。身近にあった兄の本を手にするようになっていた。「チボー家の人々」や「ジャンクリストフ」、「狭き門」などを読んでいた。
高津高校に入って、一層文学に興味を示すようになっていった。作文が苦手だったにもかかわらず、高校に入ってからは、読後感を文章に綴るなど、自分でノートを作ったりするようになった。この頃は先生の影響も大きく受ける。
英語の秋山敏先生は、受験英語などとは関係なく、エドモンド・ブランデンという英国の詩人の原書を読んでくれた。英語表現の美しさ、描写の巧みさを語ってくれた授業が、今でも記憶の底に残っている。
 阿蘇、熊本、雲仙など南九州への修学旅行を済ませ、その感想文の提出が求められた。佐野愛子先生担当の国語の時間であった。その時、予期に反して私の書いた作文が、褒められて、みんなの前で読むことになった。こんなことは初めての経験で、うれしく思うと同時に、自分にもちょっとはましな文章が書けるのだと自信を得ることになった。
 高2の時に文学好きの友人が、同人雑誌に参加しないかと誘ってくれた。校内サークルの雑誌ではなくて、顧問を持たない自由な雑誌であった。都島工業高校、清水谷高校、夕陽丘高校などの生徒が混じっていた。雑誌の名は『我記』と言って、詩、小説、評論、エッセイを内容としていた。
 雑誌は4号までであったが、私は2号から投稿している。記念にと思って保存しておいたのであろう、手元に全部が残っていた。日付を見ると、創刊号が1953年(昭和28)2月26日発行。2年生の終わりである。2号は4月、3号が6月、4号が9月となっており、高3でエッセイや小説を書いているどころではないはずの時期である。そんな余裕があったのかと不思議であるが、実際はそういうことで、のんびりと構えていたとしか思えない。
 私の心の中には、将来、文筆業になりたいものだという夢が生まれだしていた。文学に親しむにつれて、そんな夢が湧き出していた。そうはいうものの、3年生になるといよいよ進路を決め、どの大学のどの学部を受験するのかを具体的に決めなければならない。私は、それがなかなか決まらないのであった。親はと言えば、行きたいところに行ったらええがな、別に行かなくてもええよ、という調子であった。ただはっきりしていたことは、私には兄への対抗意識があったのであろう、兄の経済学部は選ぶまいという気持ちがあった。
 将来文筆業を志すにしろ、初めから文学部に行くことはないだろう、医者になったり、建築家になったりして、その傍ら文筆に精を出すという道もあるではないかと甘い夢を見ていた。森鴎外は医者であって小説家でもあったではないか、などと現実の自分を評価する目を持っていなかった。
 戦災で殆ど全てを失って、戦後の苦難を乗り越えて、子ども6人を育て、そのうち5人を大学に進学させ、それも留年あり、1浪あり、2浪ありという状態を受け入れて、卒業させたのであるから、それだけでも立派な父親であったと思う。子どもの甘い夢に振り回された父親は、さぞかし迷惑であったと思うが、子どもには甘い父でもあったわけだ。
 私が2浪をさせて欲しいと頼んだ時は、経済的にはしんどい時期であったが、「絶対にこれが最後だぞ!」ときつく念を押されて私の希望を受け入れてくれたのであった。
 今日の親のように「せめて大学を出ておくように」とか「何大学へ行け」とか「何学部へ行け」とか、親の口出しは一切なかった。本人が頑張れば応援してやるというにすぎなかったが、これが有り難かった。長男が京大経済学部を選んだについては、父親が勧めたのかどうかは分からないが、長男の方からすれば、父の商売を気にしていたことは確かである。理数系の科目が得意だったから、工学部か理学部に進んでいたら、長男の人生も変わったものになっていたのにと、私はよく思ったものだった。私は、次男であったし、おまけに子どもの時代は、勉強嫌いで「外で遊ぶのが大好きな子」という評価があったので、親からそれほどの期待をかけられていなかったと思う。それが幸いしたようである。
 将来何をするつもりなかのか、夢だけがあって、なかなか定まらない。でも志望校をきめて受験の手続きをしなければならず、担任の高橋ウキコ先生に相談したら、受けたかったらどこでも受けたらいいよという返事、高橋先生は楽天的で、1浪もよし2浪もよし、頑張ってできるのであればよ、というわけで、結局自分の人生は自分で決めろという指導であった。私にとっては、こうした大ざっぱな指導が幸いした。初年度は阪大工学部を受験して失敗、次年度は京大工学部と京都府立医大を受けて失敗、3回目に受けたのが京大文学部で、この時に合格する。
 当時の京大は、受験科目が8科目で、理系と文系の区別はなく、全て同じ問題の試験であった。受験勉強はいつも8科目であったので、理系から文系に乗り換えることが容易にできた。結果論としては、工学部や医学部などを諦めて、最初から文学部を受けておればよかったわけだが、浪人時代に実力がついたのは確かであった。