第7回 度重なる引っ越し

 父親の室内装飾業は、戦前の顧客を頼りにしながらであったが、戦後は事務員の一人か二人を雇うのがやっとというような規模であった。船場商人の誇りはあったであろうが、焼土と化した大阪を見ては、そんなものは何の頼りにもならないと思ったことと思う。要は個人の実力、「智恵と才覚」の発揮しかないのであった。
 景気の動向は、小さな商店ほど影響を受けやすい。景気の良い時、悪い時、浮き沈みが激しいのである。個人商売では、銀行から融資を受ける時、大概は自分の家を抵当に入れているから、不景気になると、家を手離してしまうことになる。お金が無くなったら、小さな家に引っ越し、儲かったらまた大きな家に引っ越しということになってしまう。
 戦災で元の家が全焼してしまったということがあるが、戦前から数えると、私は中学1年生までに、5回引っ越しをしている。大阪に戻ってきて、日本橋3丁目に落ち着いたのが5回目である。
 やっと大阪に戻ってきて落ち着いたと思ったら、商売が上手く行かず、その家を売って小さな家に引っ越さざるをえない羽目になって、近くの河原町3丁目に引っ越した。当時のたばこ専売公社の北側にあった2階建ての長屋の1軒であった。親子8人が住むには手狭で、思い出して見て、6人の子どもがどうして寝ていたのか不思議な感がするぐらいである。1階の部屋は食堂も寝室も勉強部屋も兼ねていた。私の勉強机はなく、大きなちゃぶ台がその代わりになっていた。
 親にしてみれば先ず子どもに食べさすことが第一で、苦労をしたことと思うが、悲壮感はなかった。中学生の私ときたら、部活でお腹を減らし、家族中で一番食欲旺盛であった。夕食時、私の前にだけコッペパンが一つ置いてあって、「宏はそれを食べてからご飯にするように」という時もあったが、みんなは笑っていた。
 時代の全体がもののない時代で、私の家が特別に貧乏しているという感じはなかった。
父親にすれば浮き沈みがあるのが商売、いいときもあるし悪いときもある、何とかなるものだといつも楽天的であった。不思議なことにまた何とかなっていったのである。
 私は、バスケットシューズを買ってもらった時が特別に嬉しかったし、犬が欲しい私にはシェパードの子犬をもらってきてくれたのも嬉しかった。寄席の戎橋松竹に連れて行ってもらったり、中座や歌舞伎座にも連れて行ってもらった。大晦日には値切って歩く「心ぶら」での買い物が楽しみであった。
 大学生の長男が結核にかかって、自宅療養することになって、一部屋を独占することになった。当時は保険のきかない薬で高価なストレプトマイシンを買うのに、父親が奔走していたのを覚えている。おかげで兄は1年の休学だけで復学できたのであった。
 私はと言えば、飼っていたシェパードが大きくなってよく咆えるので、兄の療養の妨げになるということで、親戚に預けることになった。世話は専ら私の役であったので、悲しい別れであった。
 高校3年のときであったが、商売も順調で儲かったのであろう、再び阿倍野区の松虫に引っ越しをした。庭つきの大きな古家を買ったのであった。私にしてみれば、自分の勉強部屋が初めて与えられたわけで、画期的な引っ越しであった。
 引っ越しのことで、付け加えておくと、私の大学時代にまた引っ越しをしている。阪急沿線の豊中で、住宅街にあって立派な庭付きの家であったが、借家であった。持ち家から借家への引っ越しであったから、家を売っての資金が必要であったものと思われる。
 高校生ともなれば、父親の後について、店の手伝いをする機会も出てきた。大学に行くようになっても、夏休みなどに父親の後について得意先をまわったりした。手伝いと言っても、得意先にお歳暮やお中元を届けたり、重たいカタログを持参したりする程度のものであったが、父親は商売の仕方についてよく話しをしてくれた。
 昭和30年代であったが、父親は外車のオペルを運転手付きで使いだした。何故外車のオペルであったのか。この車に乗って得意先の会社に着くと、守衛さんはじめ誰もが一目置き、目立つのであった。それが目的であったわけである。それは看板であり、信用を獲得する手段であった。
 父親が着る背広は、いつも一流の仕立てで既製品ではなかった。ネクタイは自分で選んで買っていた。何故そんなことに気配りをするのかと言えば、どんなに不景気で落ち込んでいても、相手に貧相な印象を与えてはいけないという父親の哲学があった。ネクタイは派手目で、それが話題になる位のものでないと駄目であった。
 お歳暮配りも徹底していた。会社の受付から電話交換手までを含めて配るので数が多かった。私が何故そこまで気を使うのかと訊いたら、会社の重役さんと会うためには、適切な時間や居所を知っておく必要があるが、そういう人達が教えてくれるのだから、受付嬢も交換手嬢も大事な存在でお世話になっているのだということであった。商売にはそういう気遣いも必要なのかと納得させられた。