1998年8月14日、関西国際空港からシンガポール経由で私たち夫婦はニュージーランドに出発した。15日の朝にクライストチャーチの空港に降り立つ。この間、何とも忙しい時間を過ごしたが、元気ならこそ出来たことであったと思う。
クライストチャーチのカンタベリー大学をどうして選んだのかということであるが、たまたま倉敷市に文部省のJETプログラム(中学校で英語を教える先生)で来日していたニュージーランドの青年と知り合いになったことが縁となった。彼がクライストチャーチのカンタベリー大学の卒業生であったのである。
そのきっかけを思い出すと、人間関係の不思議さを思わずにはおられない。1989年に米国フルブライト委員会から、ミズリー州のカンサス市にあるロックハースト大学に招聘教授で赴任していたが、たまたま生物学の先生と知り合った。先生の奥さんが大学の事務に勤めていて、その先生とは家族つき合いとなった。先生には二人の娘さんがいて、長女には二人の子どもがいた。長女が家内を買いものに連れってくれたり、地域のお祭りやブルベリー摘みに案内してくれたり、アメリカを知る良き機会を与えてくれた。
そして次女は日本に行きたいと、文部省のJETプログラムに応募していた。パスすれば倉敷市に行くと言う。ミズリー州のカンサス市は倉敷と姉妹都市であった。日本に関心があって、キャンパス内にあった私たちの家には、事務に勤めているお母さんとよく遊びにきた。家内が作る日本の料理などに興味を示していた。
私たちがニュージーランドから帰宅して、暫くしたら、その娘さんから、我が家に電話があり、訪ねてきたのであった。私たち夫婦は驚いた。そうなんだ、彼女は倉敷に来てたんだと納得したわけである。中学校で英語を教えているという。その後も何度か訪ねてきたが、ある時男の友達を連れていってもよいかときかれて、寝る部屋はあるから私たちは受け入れた。二人は婚約の仲だというので、私たちは大いに祝い歓迎した。男の方がやはり文部省のJETプログラムで英語を教えにニュージーランドから倉敷市に派遣されていたのである。数ヶ月して二人は結婚し、二人揃って倉敷から車を走らせて我が家にやってきた。
という次第で、カンタベリー大学出身の男性からカンタベリー大学を知ることになったのである。そこにはジャーナリズム専攻もあって、その担当教授を紹介してもらった。何回か文通を交わし、私はカンタベリー大学を選ぶことにした。
クライストチャーチには、男性の両親が住んでおり、リゾート地で貸別荘を経営しているという。私には、暫く1箇所に定着して休暇を過ごしたいという願いがあったので、そのアカロアという海辺の別荘を車付きで借りることにした。国内で準備万端整えて、私たち夫婦はクライストチャーチに向かったのであった。
空港には、貸別荘を営む両親が車で出迎えてくれていた。空港を出ての第1印象は、その空の青さであった。当地では冬であるが、そんなに寒くはなく、晴れ上がっての真っ青な空はまぶしく感じられた。挨拶を済ませ荷物を車に積んで、まずはクライストチャーチの街を案内してもらった。路面電車が走り、街の中をきれいな川が流れ、瀟洒な教会があり、こじんまりした感じだが、きれいな街の佇まいが印象に残る。車で主要な場所をまわって、最後はショッピングセンターの案内であった。当人達も買い物をしたが、私たちにもここで買い物をするようにと、何か所かのショッピングセンターを教えてくれた。私たちも一軒家に住むわけだから、食材を買いこんでおかなければならなかった。こうした買い物は、アメリカでの経験があったから、戸惑うことなくすますことができた。
さて、住まいするリゾート地のアカロアは、クライストチャーチから1時間半ぐらい車を走らせたところにあるという。海岸の方向に向かって走るが、豪快なドライブを楽しむことになる。月明かりのなかのアカロアに到着。北向きに立てられた平屋建て3ベッドルームのある大きな家であった。ニュージーランドは北半球にあって、北向きに日が当たる。貸別荘であるから、敷布や布団、暖炉に入れる薪、暖房具、鍋釜の類など直ぐに生活を始めるための道具が用意されていた。日本から持っていった電気毛布が役にたった。
暖炉のあるリビングルームは、初めての経験であった。薪も混じっていたが、廃材を切って割った木材を使っていた。環境問題に熱心な取組をしている国ではあったが、各家の暖房は、廃材を燃やす暖炉に頼っているようであった。煙が出るが、この暖炉の暖かさには驚いた。別荘のホストの家を訪ねたときも、リビングの中央に暖炉を設け、その上で煮炊きをしていた。家中が暖かいのであった。冬で寒いのだが、太陽の照りつけが強いので、ガラス越しに日が入ると、温室のように感じられる。外に出ると風が冷たい。
車を借りていてよかったと思った。リゾート地で住人も多いが、海岸沿いにある商店は、ごく僅かだし、レストランも限られている。そこまで歩いて買い物はできるが、日常の食材は、やはりクライストチャーチまで出かけなければならない。車はニッサン・セドリックの中古であったが、ディーゼル車であった。ニュージーランドでは、ガソリン税などの関係からか、ディーゼルの方が経済的なようであった。車を借りたときに、ホストから走る距離を買わなければならないとう説明を受けて、その意味が分からなかった。何度も説明を受けてやっとわかったのだが、車はまず予めこれから走るマイル数を決めて役所に届け、その届けた距離に応じて料金を払うというわけである。一般道路もハイウェーも関係なく走った距離の対価という考え方なのであろう。そしてその承認ラベルを車の前方ウインドウに貼り付けておかなければならないというのである。クライストチャーチの郵便局でその手続きをして走ってほしいという説明で、場所の地図を渡される。英語には自信がないのだが、そういうことなのだろうと理解して、とにかく郵便局の本局に出かけた。窓口でもらった書類にとにかく数字を入れて書き込み、半信半疑のまま提出すると、お金を請求され、言われるままに払い込む。ラベルをくれたので、これで手続きができたのだと、当たり前のことなのだが、何か大仕事をやってのけたような気持ちになった。
アカロアという街は、湾になった海に面してゆるやかな傾斜地が広がっており、海岸とその傾斜地に発達した街で、私の借りた家は中腹ぐらいのところにあった。