第60回 大阪の「する文化」

 日本の文化は大いに均質化、画一化したと言われるが、大阪と東京では今日でもさまざまな違いが指摘される。大阪では、駅のエスカレータは右側に立つが、東京では左側に立つ。「ぜんざい」と言って注文したのに出てきたのが小豆のあんに白玉餅、その違いにびっくりする。東京から引っ越してきた主婦が、大阪の主婦が気やすく値切るのを見て、ショックを受けたという話もある。この大阪と東京の違いは、どちらが良い悪いは別にして、差があるというところが面白い。海原やすよ・ともこの姉妹漫才は、この差異をオーバーに表現して笑いをとる。
 テレビ番組の視聴率にも東西の差が現れる。関西ではベスト10位に入る番組でも、東京では全く受け入れられない番組がある。「探偵ナイトスクープ」(朝日放送制作)は、深夜帯の番組であるにもかかわらず、関西で人気が高く高視聴率を維持している。にもかかわらず東京のテレビ朝日は、同時ネット受けを拒み続ける。一部にそうした現象があるものの、大阪のお笑いタレントの東京進出が定着するようになって、共通に受け入れられるものも多くなってきた。
 長寿番組と言ってもよい「新婚さんいらっしゃい」(朝日放送)など、今日では出演者は全国に及んでいるが、当初は関西の人ばかりであった。この種の視聴者参加番組の最初は、1963年(昭和38)に始まったミヤコ蝶々・南都雄二司会の「夫婦善哉」(朝日放送制作)であったと思う。夫婦の失敗もおのろけも、そのあからさまが笑いに包まれて受け入れられた。続いて1964年(昭和39)には「おやじ万歳」(朝日放送)、1969年(昭和44)に「ヤングおー!おー!」(毎日放送)、翌70年に「只今恋愛中」(朝日放送)などの視聴者が積極的に乗っていく番組が登場した。
 こうした積極的に視聴者がテレビに出て、今日で言うところの「個人情報」を堂々とまき散らす番組は、大阪局の独壇場と言ってよかった。大阪の人は、カメラを向けられても逃げようとしない。むしろカメラに向かって演技し、過剰なサービスさえしてしまう。視聴者参加の公開番組では、出演者も会場の視聴者も番組に「乗って」くれることが必要であるが、大阪の視聴者は難なくその条件を満たしてくれたのである。舞台を見て楽しむという楽しみ方もあるが、大阪の人たちは、その上に自ら「する」ことによって楽しもうとする。芸事も舞台を鑑賞する楽しさもさりながら、自分でした方がもっと楽しいと思っている。
 演芸場に出向いて、舞台に積極的に反応する観客がいると楽しい寄席空間が出来上がる。70年代の前半頃までは、大阪には「うめだ花月」「なんば花月」「角座」「コマ・モダン寄席」「新花月」の5つの演芸場があった。いずれにも寄席ファンで観客リーダーとでも言える人たちがいた。舞台とのやりとりの一番多いのは「新花月」で、厳しい野次が飛ぶところで有名であった。
 「なんば花月」でみたハプニングであるが、今でも思い出したら笑いが込み上げてくる。チャンバラトリオがお得意のチャンバラ芸を見せていると、客の一人が舞台に上がって落ちていた刀を拾い上げ、「俺はこれがやってみたかったのだ」と勢い込んで、チャンバラトリオに「さあ、こい!」とかかっていった。驚いたのはチャンバラトリオで、相手はせないかん、舞台から降りてもらわないかんと四苦八苦したのであるが、観客は大爆笑で笑いが止まらなかった。
 大阪では、古くから芸事を教える「稽古屋」、今で言えば「各種学校」「文化教室」と言った類のものが町内のあちこちにあったという。商家の子どもたちはもの心のつかない時から何らかの芸事を習わせられたものである。私自身の経験だが、幼稚園か小学校1年生頃に謡曲と仕舞を習わされた覚えがある。「する」芸は体に刷り込まれるということになるのか、不思議なことに大学に入って甦り、自ら進んで学生サークルの「京大観世会」に入部してしまった。こうした父親から受けた影響というのは、年をとるに連れて出てくるから不思議だなと思う。
 2007年の春、その「京大観世会」の先輩達でつくる「諧声会」の会長に、偶然に会うことがあって、また謡を始めませんかと誘われた。学生時代に親しんだと言っても、もう50年も前のことで、果たして再開できるものやらと心配したが、「やってみるか」の虫が動き出し、練習開始となった。そして何と練習間もない5月20日には、会の稽古会に素謡で出演してしまった。まさにやってしまったという感じであった。
 父親は、1903年(明治36)の生まれで、大阪船場の博労町で金物問屋を営む商人であった。後に家業を弟に譲って自らは室内装飾の事業を興したが、戦災で全てを無くし、戦後は店員も僅か、殆ど自力で商売に励んだ人であった。父親は、多趣味の人であったが、私からすれば、そんな芸をいつ、どこで身につけたのかが不思議でならなかった。稽古屋に通ったであろうし、お座敷遊びもしたと思われる。芸事を「する」ことは、好きでもあったであろうが、旦那衆のたしなみ、商人の教養でもあったようである。
 父親の時代には、長唄を習い浄瑠璃を語るのも、それらが舞台とつながっていた。自分で「する芸能」のモデルを歌舞伎や文楽で確認でき、そしてまた舞台を真似して楽しむという循環が生きていたのだと思われる。下手な横好きでも「する人」がたくさん居れば、劇場も賑わうわけである。巷に「する人」が減っていって、舞台を見に行く人も減っていったと言えるかも知れない。父親は、自ら「する人」であったからか、舞台もよく見に行っていた。歌舞伎でも見たいと思えば東京までも出かけていた。
 芸事は見て聞いて楽しむということがあるが、自ら「する人」になるともっと楽しい。身体を通すところに味わいがでるのであろう。楽しみを深く追求しようとすると、自ら「する人」になった方がよい。下手でもやってみたいのだ。人から下手だと言われても自分が楽しんでいるのだから、そんでええやないのというわけである。上手で褒められたら、もひとつ嬉しいというおまけがつく。この気風から言えば、歌舞伎も文楽も浪曲、講談、落語も「する人」を増やすことが極めて重要なことになるわけだ。

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