第6回 大阪ミナミで育つ

 中学、高校を通じて、私の生活圏は専らミナミであった。と言ってもそんなに範囲は広くなく、北は長堀、南は恵比須町、東は松屋町、西は御堂筋ぐらいまでで、ぶらつくのは、千日前、道頓堀界隈が中心であったであろうか。
 1947年(昭和22)に復活した「戎橋松竹」は、千日前通りと御堂筋の交差点西南角にあって、そこには父親に連れられて寄席を楽しんだ覚えがある。道頓堀の中座は、松竹新喜劇の常設劇場で、お正月には決まって正月興行があり、父親が枡席を予約していて、家族そろって見に行った。「一年はまず笑うことから始めて」という父の考え方の実践であったのであろう。子ども達は、芝居が好きではないが、美味しいものが食べられるという理由でお供をしたわけだ。父が実にありがたい経験をさせてくれていたのも、成人してから理解できたことである。
 この時代の娯楽の王者は映画であった。日曜や祭日には、映画館が満員になった。1949年(昭和24)には『青い山脈』が大ヒットし、満員の客にまじって見た覚えがある。繁華街には、どこからかヒット曲のメロディーが流れていて、『異国の丘』や『銀座カンカン娘』『長崎の鐘』などが、自然に耳に入ってきていた。
 家が日本橋3丁目にあったから、中学校へは道具屋筋を北に上がって千日前を真っ直ぐ、大劇や歌舞伎座を横に見て、道頓堀に突き当たり、中座、松竹座の前を通って御堂筋に出て北に歩くというコースが普通であったが、道頓堀から心斎橋筋に折れて大丸の方に歩く時もあった。帰りは、行き当たりばったりであったが、松竹座、浪花座、アシベ劇場、常盤座、大劇などの映画館前では、宣伝用のスチール写真や看板を見ながら帰ったものである。これが楽しみであった。学生同士で映画館に入ることは禁止されていたが、鞄を隠して切符を買った時もあった。
 現在の「なんばグランド花月」があるところは、大きな空き地になっていて、臨時の興業が行われていた。木下大サーカスが大きなテントを張ったり、時には小さなストリップ劇場ができたりしていた。ストリップ劇場の看板やスチール写真は、中学生にとってはとても刺激的であった。
 心斎橋を歩くのも楽しみだった。「北極」のアイスキャンデーがおいしかった。蒲鉾の「大寅」では、母親からの言いつけの買い物をよくしたものだ。ブタマンの「蓬莱」、パンの「木村屋」、カステラの「長崎本舗」、少し北に歩いてケーキの「平野屋」「不二家」、喫茶店では「プランタン」などが思い出される。大丸前の「宇治香園」のお茶の香りも忘れられない。
 心斎橋を歩くのを「心ブラ」というが、友だちと連れだって歩いたものだし、父親とも一緒によく歩いたものである。洋品店、宝飾店、靴、瀬戸物、呉服、楽器、お茶、書店、昆布、レストラン、ケーキ、喫茶店、パチンコ屋など、古い店もあり新しい店もあり、さまざまな店が雑然と並んで、と言っても無秩序ではなく、ある種のまとまりがあり、その中を歩いていると何故か気分が落ち着くのである。多様でありながら、それぞれが個性を発揮して自己主張をしており、競い合っている緊張があり、それでいてある種のまとまりを感じさせてくれる。新旧の競い合い、多様であって雑然として、しかしある種の秩序感もあってという雰囲気が気に入っていた。
 当時のミナミは、商店を営みながら家族が住んでいた。朝だと店の前を掃除する人がいたし、夏だと夕刻には打ち水をしていた。子ども達も住んで道路で遊ぶ街であったから、それなりの秩序があって、繁華街と言っても、今日のように風俗営業のけばけばしい看板も目立たず、生活の臭いがあった。
集客の目玉は映画館であったから、映画が斜陽化していくに連れて、街の様相が変わっていった。何と言ってもテレビの影響が大きかった。昭和25年(1950)に日本のテレビ放送が始まるが、34年頃からのテレビの普及とともに、映画観客が減少していった。
 中学時代は家では専らラジオをよく聞いていた。『鐘の鳴る丘』『二十の扉』『えり子とともに』『とんち教室』などを聞いていた覚えがあるが、1949年(昭和24)に、NHKラジオ第2放送で始まった『上方演芸会』は、一番楽しみの番組であった。芦の家雁玉、林田十郎の司会で「いらっしゃいませ」「こんばんは」で始まり、上方の漫才が次から次へと紹介されていった。
 戦後の上方演芸の復興は、1947年(昭和22)に演芸場として開場された「戎橋松竹」とNHKラジオの「上方演芸会」にあると言われている。両者が鮮明に記憶に残っているのも、父親をはじめとして家族そろって「お笑い」が好きだったからであると思われる。私が後に「大阪の笑い」に特別に興味を抱くようになったのも、家庭のなかにあった笑いが基になっていると考えられるのである。