大学受験生の減少で、各大学とも新しい学部や学科の増設、カリキュラムの改革、更には大学の合併や提携など、その動きは慌ただしい。一口に学部増設と言っても、新しい土地を獲得し、学舎を建てての新設は、そんなに容易に実現するものではない。
新しい土地の購入と造成、学舎の新設、新規の教員募集ということになると、莫大な資金を必要とするし、事前の準備が大変である。関西大学は、そうした一大事業として高槻の霊仙寺地区に11万坪の土地を得て、「総合情報学部」という学部を1994年(平成6)年4月に開設した。
私はその新学部の創立準備からかかわって、開設と同時に初代の学部長代理に就任し、学部長を補佐しながら96年9月までの2年半、その任を果たすことになった。当初、高槻の土地を見に行ったときは、目前に山を見るだけで、こんなところに学舎が立つなんて考えられもしなかった。
開設準備は、それだけでも忙しいのに、学外の仕事も重なって多忙をきわめた。95年の2月には胆石症で10日間の入院を余儀なくされたことは前回でも触れたが、忙しさの渦中にあるときは、時の勢いというか、何かに突き動かされるように動きまわって、無理に気がつかないもののようであった。内視鏡による手術のおかげで、回復が早く、退院してから見舞いに訪ねてくれた人もいたくらいであった。私自身ももう退院かと驚いたくらいである。
総合情報学部は、関西大学にとっては7番目の学部創設で、1967年(昭和42)に社会学部が発足して以来の新学部の誕生であった。どんな学部を作るかについては、大学の「新学部設置検討委員会」で検討が行われていて、これからの社会を見通したとき「社会の情報化」は必至で、関西大学は情報系の学部を構想していた。
私はその当時、社会学部で「マスコミュニケーション概論」という科目を担当していて、従来のテレビに加えて「ニューメディア」としてのテレコミュニケーションの発展を本気で追うようになっていた。私自身もこれからの社会を展望する中で、1987年(昭和62)に『テレコム社会』(講談社現代新書)という本を書いていた。86年にアメリカでの研究員生活を終えて帰国して書き下ろした著書で、アメリカでの見聞を反映した本であった。
新しい学部の計画は、そうした私自身の「情報化社会の進展」への思いとクロスするところがあり、私は新しいカリキュラムに夢を託す思いで取り組んだのであった。学部理念の「文系と理系の総合化」というのも夢の実現と考えていた。
『テレコム社会』は、工業化社会の矛盾を緩和あるいは解決をもたらす可能性を探って書いた本で、画一的な労働形式や労働管理、画一的な国民の行動様式など、「画一化」をテレコムが柔軟にしてくれるであろうという期待を込めて書いたのであった。
フルブライト客員教授としての2度目のアメリカ体験から帰国したのが1990年(平成2)1月であった。帰国すると早々に情報系の学部を構想する有志から声を掛けられて議論の中に加わるようになった。学部の理念やカリキュラムのことなどを話し合った。一番難しい問題は教員の確保であるが、そのために先ずは、学部長候補を見つける必要があった。学部開設を1994年(平成6)に置くと、早くからそうした人を探さねばならないということになる。新学部設置に向けての正式な組織「総合情報学部(仮称)設置準備委員会」の発足は91年(平成3)4月であったが、それ以前から学部長候補を探す努力をしていた。
私はたまたま「日本新聞学会」(現在は「日本マスコミュニケーション学会」)でお付き合いのあった東京大学の高木教典教授(当時「東大新聞研究所」所長)を推薦した。メディア関係のみならず広く全国的にも著名な人で新学部の長としてふさわしい人ではないかと推薦させてもらった。
90年(平成2)年の「日本新聞学会」が6月に松阪大学で開催された機会を捉え、6月1日に松阪市内で、新学部設置準備の中心的存在であった石川啓教授(当時 社会学部部長)と会ってもらった。関大に来ていただきたいというお願いをしたわけである。高木教典教授は、92年3月に定年を迎えるということだったので、まず社会学部の教授として就任していただき2年後に開設する学部の準備に当たっていただくという話をさせてもらったのである。
私は、その後も千葉県柏市にある高木先生の自宅や職場に何度か伺い、そして今度は東京に今は亡き大西昭男学長(当時)と石川啓社会学部長(当時)に出向いてもらって、学長から正式に関大への就任を要請してもらった。高木教典教授には、関西での単身赴任という不便をかけることになったが、92年4月に社会学部にきていただくことになった。いったん社会学部教授として就任し、新設学部準備の任に当たっていただいたわけである。
新学部の設立準備は、全学の協力を得て専門の分科会をつくって協議を行い、カリキュラム、学舎、設備、人事など着々と進められていったが、学部の宣伝、説明会、入試の実施方法など、直前の準備については、関西大学の移籍教員が中心となった準備委員会が当たることになった。高木教典教授が準備委員長に、私は副委員長として、コンビを組んで行動をともにした。学舎も教員も用意したが、入試が成功しなければ、「総合情報学部」を世に問う意味がないという思いで、学部の説明・宣伝に汗をかいた。新聞社や受験雑誌からの問い合わせやインタビューには、こまめに対応し、高校や予備校の説明会には、機会があればどこにでも出かけて行った。
最初の入学試験は試練と言ってもよく、どれだけの学生が受験してくれるか、PR努力の甲斐あって志願者数15585人という全国一の記録的数字を達成できた時はとても嬉しかった。PRの努力が報われた思いであった。
教員は総勢57名であったが、関大からの移籍教員が8名に過ぎず、気心の分かった同志も少なく、初期の学部運営は苦労の連続であった。しかし高木学部長とのコンビで辛苦を共にできたことは、貴重な経験であったし、今は全てが懐かしい思い出である。
義父、髙木教典の関大新学部創設の様子について知ることができました。ありがとうございました。
阪神淡路大震災後に、家族で大阪に行き、総合情報学部を義父に案内されたことをとても懐かしく思い出しました。