第57回 大阪府立高校に「芸能文化科」が誕生

 1990年(平成2)1月にアメリカから帰国してからは、急に忙しくなっていった。
大学では新しい学部を作る仕事が始まって、私はその準備委員(後に「総合情報学部」設立準備委員)に選ばれた。情報系の学部を新設するということで、94年の開設を目標に動き出したのであった。「上方演芸保存振興検討委員会」の仕事が、1月から入ってきたことは先にも書いたが、そうこうするうちに、それまで有志で運営していた「笑学の会」を「日本笑い学会」に発展させようと動き出し、94年7月に設立大会を開催した。その94年4月には新しい学部として、高槻キャンパスに「総合情報学部」が発足、私は準備委員会の副委員長をしていて、新学部に移籍することになり、初代の学部長代理を引き受ける。
 こうした動きに並行して、91年(平成3)には、大阪府教育委員会から府立高等学校に「芸能コース」を設置するための研究会を組織したいという相談を受け、私は大変良い考えだと賛同したことから、「大阪芸能研究会」を組織し、その代表者をつとめることになった。当然のことだが、講義やゼミも滅多なことでは休講しない方針であったから、この90年代の前半は、「猛烈社員」に負けない働きぶりであった。それがたたってか、1995年(平成7)2月に胆石症で倒れ、内視鏡による手術を受け、2月21日から3月2日までの10日間入院をすることになった。丁度60才の還暦の祝いを済ました後のことであった。
 「大阪芸能研究会」は、文楽・歌舞伎、能・狂言、落語・漫才等の評論・実演・作家からなる「学識経験者」と府教育委員会関係、教育現場の教諭とで構成し、91年(平成3)12月に第1回の「芸能コース研究委員会」を開催。府立高等学校に、これまでになかった日本の「芸能コース」を取り入れる意義について、その場合の教育内容、その方法について議論を交わした。
 芸能研究会は、3月末までに一定の調査報告書を出さなければならないので、第2回研究会を92年(平成4)1月に、そして3月に第3回目を開催してその後に「府立高等学校における芸能科目の履修に関する調査報告」と題した報告書を府教育委員会に提出した。
 「芸能コース」についての調査報告書を提出したが、府教育委員会の方では、「コース」ではなく「学科」として更に検討したいという方針になり、その旨を受けて、以前の委員に若干の入れ替えをして、「芸能学科研究委員会」を発足させ、その第1回会合を92年(平成4)7月に開き、93年(平成5)4月開設を目指して中味を煮詰めていった。前回の委員会に引き続いて、私が座長をつとめてとりまとめにあたることになった。
 芸能科目の設置の意義やおおよその内容については、「コース」設置の時に議論しておいたので、「学科」設置では、30単位のカリキュラム編成、個々の科目内容ばかりでなく、実技の施設、器材から教える教員の委嘱まで、学科開設に必要な全てを短期間にとりそろえなければならなかった。府教育委員会スタッフ自身、これまで芸能関係とは縁が薄かっただけに、大いに汗をかいてもらうことになった。「芸能」は古典と現代とに分け、「古典芸能専門部会」と「現代芸能専門部会」の2部会をつくって具体的検討に入った。専門委員には、内容をよく心得た現場の専門家・評論家をお願いした。教育の狙い・手順、必要な道具も書き込んで、具体案を作成してもらった。古典部会の部会長には、今は亡き和多田勝氏(エッセイスト)に、現代部会には山口洋司氏(当時、読売テレに編成局次長)にお願いした。
 専門家の協力を得て、30単位の教育の中味を描き出すことができたが、一番大きな問題は、施設の問題であった。委員会としては、空き教室を転用するとか、間に合わせの施設ではなく、芸能教育を行うにふさわしい本格的な舞台を用意したホールを要望した。どんな水準の舞台にするか難しい点はあったが、生徒達が誇りをもって学べる施設であることが必要であると考えた。府教育委員会では、校地内の限られたスペースであるが、そこに本格的な小劇場を建設するということになった。
 「大阪芸能研究会」は、92年(平成4)8月に入って、「芸能学科(仮称)設置にともなう施設・設備・備品に関する調査報告書」をまとめて、府教育委員会に提出した。
 そして、いよいよ1993年(平成5)4月に、大阪府立東住吉高校「芸能文化科」はスタートしたのであった。全国で初めて、公立高校に日本の芸能を取り上げる試みが始まったのである。施設・設備は1994年(平成6)に見事な出来映えで完成した。研究会の努力は報われたと思った。
 「芸能文化科」は、2008年には、設立15周年を迎えるまでに成長したが、私は少なくともこれをモデルとしてもう1校ぐらい名乗りをあげてもらいたいと思っていたが、それは残念ながら果たせていない。
 現状がそんなに変わっていないだけに、当時の中川和雄知事がいかに新しい発想をもって時代に臨んだかが分かる。思えば「大阪府立上方演芸資料館」(「ワッハ上方」)の「基本構想」も中川知事に手渡したのであった。
 日本の芸能を公教育のなかに位置づける作業は、まだ道細しで、若者たちへの継承を考えてゆくならば、もっと真剣に考えなければならないと思う。
 1992年(平成4)に、今から15年前に府教委に提出した「芸能科目の履修に関する報告書」が手元にある。そこに書いた一文をここに抜粋しておきたい。
 「日本において生まれ育まれてきた能・狂言、歌舞伎、文楽、舞踊、落語、漫才、講談などの日本の芸能は、家元制度や師弟関係の中で保存・伝承されてきて、学校教育の外に置かれてきたがために、日本の芸能にもかかわらず、若い人々からは縁遠い存在になり、後継者を育てるのにも困難を生ずるに至っている。若い人々に先ずは日本の伝統的な芸能から現代の芸能にいたるまでを知ってもらい、関心を持ってもらうことが重要である」。
 今読みなおしてみても、文章が古くなっているとはとても思えない。日本の芸能を若い人々にどのように継承していくのか、まさに今の課題ではないかと思われる。

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