第55回 「ワッハ上方」館長に就任

 98年(平成10)の暮れ頃であったろうか、私は大阪府から「ワッハ上方」の2代目館長就任の打診を受けた。99年4月からの予定である。大学の勤務があったから、受けるとしても非常勤になるが、そんなことで勤まるのかなと暫く考えることになった。念願の資料館がスタートしたのであったが、「基本構想」からかかわってきた者としては気になる点もあった。肝心の「資料保存事業」がおろそかになっているのではないかという心配であった。資料に詳しい人はいたが、整理・保存のための専門学芸員を置かないでスタートしていたのである。
 館長就任には勤務先の大学の許可も必要であった。石川啓学長(当時)からは「よいことではないか」と激励の言葉をいただいた。関西大学では、私は94年(平成6)4月に新設の総合情報学部に移籍し、その初代学部長代理を96年9月まで務め、それ以降は大学院修士課程の設置準備に追われる身となり、99年度は総合情報学部の第1期生が卒業年度を迎え、翌年には、修士課程の学生を迎えての授業が待っていた。そんなことを考えると、果たして務まるかと心配であったが、忙しくなるのを承知で「やってみるか」と館長を引き受けてしまった。
 99年(平成11)4月1日に就任して、2002年3月末まで、丁度3年間の館長であった。こうした自治体経営の館長の仕事は、初めての経験で、私にとっては得難い経験となった。楽しいこともあったが苦しいこともあった。
 楽しい仕事として印象に残っているのは、『ワッハ上方』の機関誌を発行できたことと、「ワッハ上方プロデュース公演」が実施できたことなどである。資料館は「インフォメーション」という館の案内情報を月刊で発行していたが、機関誌を持たなかった。私は、資料館の活動内容、その存在意義を知ってもらうためには機関誌が欠かせないと思っていた。
 事務方から予算上無理という説明を受けながらも、機関誌は欠かせないと、無理に無理を言って年刊の発行にこぎ着けた。資料館には開設当初以来、演芸に造詣の深いスタッフとして、棚橋昭夫(元NHK)、山口洋司(元YTV)、村上正次(元KTV、故人)、都筑敏子(元OBC)4氏の参与がいた。その参与達の協力を得て、取材、執筆など殆どの原稿を内部スタッフで用意した。もちろん、私自身も書いたし、原稿のまとめの仕事もした。外部編集者には私のゼミ卒業生の協力を得た。だから私も無理が言えて仕事ができたのだと思う。鼎談で綴る「昔の演芸今の演芸」、「お宝」の収蔵資料の紹介、「ワッハ上方プロデュース公演」の誌上採録、館長インタビューなど、ページ数は多くなかったが、充実した機関誌を刊行することができた。
 今その3号までを手元において眺めてみる。往時の「ワッハ上方」の年間事業の記録、寄付をしていただいた収蔵資料、演芸界の長老達の歴史的証言、「ワッハ上方」に寄せる期待など、今読み直してみると、記事自体が資料になっており、3号雑誌で終わったとは言え、無理してでも発行しておいてよかったという思いが甦ってくる。
 「ワッハ上方プロデュース公演」も楽しい思い出である。参与の方々に「ワッハ上方」ならではの舞台制作をお願いし、それを資料として残すという企画を立てた。第1回は2001年(平成13)1月20日に、棚橋昭夫参与が担当して「春野百合子の世界」を制作。私は観客席で見せてもらったが、春野百合子独自の曲節の実演と解説があって、私は節の素晴らしさ、その芸の力に深く感動した。まさに保存するに値する舞台だと思った。 
 2回目は山口洋司参与が担当して、同年2月11日「責任者出てこい!あの人生幸朗から平成のぼやきへ」を制作した。人生幸朗は1982年(昭和57)に没し、それから19年が経過して「ぼやき漫才」が忘れかけられている。そこで人生幸朗・生恵幸子の漫才をビデオで再現したのであった。生恵幸子、竹本浩三の両氏に私が加わって、「ぼやき漫才」の面白さ、その大阪らしさについて語り合った。若い漫才師には是非見てもらいたいと、各プロダクションに招待券を配ったりもした。
 3回目は同年3月17日に、今は亡き村上正次参与が担当して、「東京やなぎ句会」総出演で、トークショー(永六輔、大西信行、小沢昭一、桂米朝、加藤武、永井啓夫、矢野誠一)と東西落語名人会(桂米朝、入船亭扇橋、柳家小三治)の舞台を実現した。永六輔さんの司会で、それぞれが芸談を語り、そして東西の名人が落語を演じるというまたとない舞台となった。そればかりでなく、柳家小三治さんから初代桂春団冶の羽織を資料館に寄贈したいと申し出があり、その場で受け取ったことも忘れがたい。
 苦い思い出もある。「ワッハ上方」が廃止されるかも知れないという危機を経験したことである。2001年の6月6日、読売新聞が「大阪府、25施設の運営見直し ワッハ上方廃止へ」の記事を掲載したことに端を発して、「ワッハ上方」は大揺れに揺れたのであった。新聞は大阪府が「利用者の低迷に悩むワッハ上方の廃止方針を固めたのをはじめ、7施設の廃止の検討対象とし」と書いたのである。館長の私は新聞から何の取材も受けず、府当局からも何の話もなく、全く寝耳に水の話であった。廃止なんて、そんなことがあってよいはずがないと、私は府当局にも有識者の方々にも、マスコミの方々にも必死の思いで「ワッハ上方」存在の意義を説いてまわった。
 「ワッハ上方」第3号の巻頭言として次のようなことを書いている。「大阪の笑いの文化は、長い伝統を有し、大阪の地で生まれ育ってきた文化であり、大阪人にとっては心のふるさとにもなり、ワッハ上方はその根拠地として位置づけされる。大阪だからこそ作れる資料館、大阪らしさがいっぱい詰まった資料館である」。その資料館を無くしてなるものかという気持ちであった。
 府の財政難からの検討は、結果として、(財)大阪府文化振興財団への委託運営から大阪府直営に切り替わって「存続」が決まった。2002年3月、資料館の存続を確認し一安心して私は館長を辞したのであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください