1990年(平成2)1月13日に、私はアメリカでのフルブライト客員教授の仕事を終えて帰国した。
在米中に大阪府生活文化部から電話がかかってきて、アメリカまで一体何の用件かと驚いたことを思い出すが、「上方演芸保存振興検討委員会」の立ち上げを検討しているので、その会長を引き受けてくれないかという打診であった。私自身もかねがね大阪に演芸資料館ができればと願っていたので、内諾をして帰国した。上方の落語や漫才、喜劇などの「笑いの文化」は、大阪の地で生まれ育ち、今もなお多くの人に親しまれている。それが、演者がいなくなると、もう2度とその芸が見られなくなってしまい、台本などの資料も消えてしまうという事態は、何とかならないものなのかと、かねがね思っていたところであった。大阪府から声がかかったときは、夢がかなう思いがしたものである。
大阪府は早く委員会をスタートさせたくて、私の帰国を待ってというか、1月19日に第1回の委員会が開かれた。行政側から岸昌知事をはじめとして、担当部局の生活文化部の面々、検討委員として、難波利三、桂米朝、夢路いとし、喜味こいし、西川きよし、原晙二( NHK大阪放送局副局長)、佐藤彰(当時 朝日新聞大阪本社学芸部長)、西野正夫(当時 読売テレビ常務編成局長)、それに私の九人が出席した。
その後、民間会社からの委員は人事異動で交替があったが、他の委員は、資料館が開館する96年(平成8)11月までの6年間を務めることになった。私は、その間ずっと会長職にあって座長を務めるとともに、事務局の相談にあずかっていたが、一番気をつかったのは、関係者の一致協力の体制をどうしたら作っていけるかということであった。放送局、新聞社、興行会社、実演者など、立場の違う者同士のオール大阪的な協力が必要で、それがあってこそ、大阪が誇れる演芸資料館が作れるのだと思っていた。放送局などは、日頃激しく競争しているが、この資料館の設立に当たってはNHKも民放も全局がこぞって協力的であった。東京の評論家から、こんなことは東京では不可能で、さすが大阪ですねと言われたのを思い出す。
委員会の仕事は、上方演芸の保存と振興のための「基本構想」を作成し、知事に提出することにあった。何故上方演芸の資料を収集・保存しなければならないのか、事業の理念や目的について話しあったし、その目的達成のためにはどんな施設が必要なのか、そして先ずは準備段階で取り組んでおくべき課題は何かなどについて、議論を深めていった。
第1回の委員会を受けて、同年3月には資料とすべき対象の選択や収集の方法について実際業務を担当する「資料部会」が発足、部会長を狛林利男氏(当時 朝日放送事業本部局長プロデューサー、故人)にお願いした。
約2年間の委員会の審議を経て、資料館の理念、事業、施設内容、および立地条件等について検討し、92年(平成4)3月の委員会で「上方演芸保存振興事業に関する基本構想」を取りまとめた。そして4月に中川和雄知事(91年4月の選挙で当選)に「基本構想」を手渡した。
一番大事な理念の部分を抜粋しておこう。「上方演芸が時代の変遷につれて風化することのないよう、上方演芸に関する資料等を調査、収集、整理、保存して、後世に引き継ぐ」「時代にふさわしい新しい芸術を創造し、大阪文化のより一層の振興、発展に寄与」「大阪文化のアイデンティティの形成を促進することができる事業であり、世界の文化都市を目指そうとしている大阪にとって特徴的な事業である」と記している。(詳しくは、毛馬一三『ワッハ上方を作った男たち』西日本出版社、2005を参照)。
中川和雄知事に「基本構想」を手渡したにもかかわらず、世間では「ワッハ上方」はその後に知事になった横山ノック氏がつくったと思っている人たちが意外と多い。ノック氏が演芸の出身であったということから、だから「演芸資料館」ができたのだろうと、勝手に思いこむ人が多かったようである。また「ワッハ上方」が完成を見たのが、1996年(平成8)でそのときの知事が横山ノック氏であったという事実も影響していたと思われる。実は中川知事こそ熱心な推進者だったのである。
演芸資料館の「基本構想」は出来上がったが、問題はどこに立地するかであった。道頓堀近くの日本橋界隈の土地が候補に上がって、一時はそこに独立館としての演芸資料館が構想され、その建築デザインまで作成された。それを見た私は、こんな独立館ができればどんなに素晴らしいか夢をふくらますことができた。ところが、土地買収交渉が障害にぶつかって失敗し、新たな土地探しが始まったが難航し、結局は吉本興業が千日前の「金比羅分社跡地」を買収し、そこに建てたビルの一部を賃借することで落ち着いた。
設計は「基本構想」に基づいて、建築仕様書きが作られ、資料保存室、展示室、ライブラリー、リハーサル室、演芸ホールなどを用意した演芸の「保存振興」を目的としたミュージアム空間が用意された。
いよいよ開館が迫ってきた96年(平成8)11月1日、大阪府は『府政だより』の全面を使って桂米朝師匠と私との対談を掲載して、「ワッハ上方いよいよお披露目」のお知らせをした。その時の米朝師匠の言葉で深く印象に残っている言葉がある。「あそこで調べたらたいていのことはわかる、というシステムが定着すればホンマモンですな。時間がたてばたつほど、ようこれだけのことをやってくれたなと後世にいわれるようであればと思います」。
そして、11月14日に開館記念式典が行われ、15日に開館した。運営は、財団法人大阪府文化振興財団への委託である。初代館長には、資料部会長をしていた狛林利男氏が就任した。これまでの検討委員会は「上方演芸資料館運営懇話会」に切り替わり、私は継続して懇話会の会長を務めることになった。懇話会は運営の相談にあずかりながら、主たる業務は上方演芸の名人の「殿堂入り」の選定をすることにあった。
開館準備から開館してからのスタッフの忙しさは、聞くにつけ頭の下がる思いであった。開館して暫くは、マスコミで取り上げられる機会も多く、創業人気もあって大勢の来場者があったが、そう長くは続かなかった。