1948年(昭和23)4月に大阪に舞い戻った。1944年(昭和19)早々に疎開しているから4年ぶりということだが、時代の激変を経てのことで、親たちの苦労は並大抵のものではなかった。子どもたちは6人いたから、食べさすだけでも大変である。大阪では、まず日本橋3丁目交差点の北西の角家に落ち着いた。
父親は、戦前には小さな工場をもって職人さんも置いていたが、戦後は全てが戦災にあってしまったので、自らは工場を持たず、得意先から家具やカーテンの注文をとるという、戦前からの仕事を再開した。
私は、大丸百貨店の近くにある南中学に編入した。日本橋3丁目からは、通学路が千日前や道頓堀、心斎橋筋や御堂筋で、小学校時代からすると、環境の激変であった。
1学期が始まって間もない頃で、編入したその日に、担任の山口清先生から、いきなり「ボール遊びは好きか」と訊かれて、「好きです」と答えると、それで私はバスケットボール部への入部が決まってしまった。山口先生は、バスケットボール部の監督であったのである。この山口先生が中学卒業までのクラス担任で、理科と数学の受け持ちであった。
教育熱心の熱血先生で、面倒見がよい一方でよく怒る先生であった。黒板の前で問題を解かされてできないと、白墨の粉がついたチョーク消しで頭を叩かれるか、頭を小突かれて黒板にデボチンぶつけるかの罰があった。
ほっぺたにビンタをくらった覚えもある。ある日、保健の女の先生の机の上に小さな醤油瓶がおいてあったので、誰かがそれにインクを混ぜてしまった。先生がそれをもし振りかけたら面白いと、4、5人がわいわいと騒いだ、のはよいが、本当に弁当にかけられてしまった。保健室を掃除していた連中が呼び出され、「誰がやったのか」と山口先生から詰問され、騒いだ連中が手を挙げると、私もその中にいたわけだが、全員がほっぺたに大きなビンタをくらってしまった。それでお終いである。
山口先生の罰の与え方は厳しかったが、罰の理由は明確で、一度叱ればそれっきりで、後に持ち越すことは一切無かった。生徒たちはそのさばさばしている性格に惹かれていた。私はバスケットボール部に入っていたので、成績が下がると、「バスケットを辞めさすぞ!」とよくおどかされた。私の成績は、1年生からずっと良かったというのではなくて、学期が進み、学年を重ねる毎に良くなっていった。高校受験が迫ってきた時期には、クラスの上位にいて志望校が受験できることになった。
3年間、一貫して山口先生が担任であったことが幸いであった。先生は理数の担当で、自らすすんで補習授業やテストを行い、厳しい先生であったが、生徒への愛情もまた人一倍強い先生であった。愛情あればこその体罰であったと思うし、生徒も先生を尊敬していた。生徒も親も誰一人文句を言う人はいなかった。
私の運動神経からすれば、バスケットボールが要求する敏捷さに欠けていたのではないかと思っていたが、私はチームの中では背が高く、センターを受け持っていた。コートの端から端まで素早く走らねばならないポジションで、動きが鈍いと先生からは容赦ない檄が飛んだ。「お前は牛か!」と怒鳴られるのである。
ある試合で、私は何を錯覚したのか、敵のリングにシュートを決めたことがあった。「お前はアホか!」と怒鳴られたのは言うまでもない。私はそうした罵倒の言葉に、だんだんと強くなっていったようだ。もう失敗はするまいという決意と同時に、叱られる免疫力もついていったようである。それも小学校時代の疎開先での経験の延長で考えればたいしたことではないわけであった。何しろ6人の兄弟姉妹であったから、学校で先生にどつかれたとか、嫌なことがあっても、いちいち親に話すこともなかった。友だちと話し合って笑い合っていた。お互いに失敗談を笑い合うのが痛快ですらあった。
私の兄とは、6才の差があって、兄は小さいときから長男として育てられ、勉強もよくできて、高校でも1,2を争う実力を持っていたという。私は、小さいときから家庭教師を忌避してしまう程に勉強が嫌いであったが、高校受験が迫ってくると、「兄貴が通っていた高校にゆけなくてどうする」と発奮し出したのである。負けん気の発揮である。理数に関しては、傍に兄がいて、質問ができたといいうのも有利な条件であったと思う。
高津高校受験の日、珍しく母親が付き添ってきてくれた。父兄の参観日でも滅多に顔を出したことのない母親がついてきてくれたのである。母親からすれば、私の大事な一日を共に過ごしてやろうという気持ちであったと思う。何しろ6人の子どもを育てたのであるから、こまかく面倒をみるなんてできるはずがなく、疎開時代の私のことなど思い返していたのではないか。私にすれば、うれしい一日であった。午前の試験が終って、運動場に出てくると、母親が心配そうに「どうだった?」と訊いてくる。母親は、私が勉強嫌いでできが悪かった、という印象を持ち続けていたから心配していたのであろう。私が自信たっぷりに「みんなできたと思う」と言うと、「ほんまかいな」と笑ってくれた。