第49回 フルブライト委員会からの招聘

 1989年(平成元)の2月、私は再び渡米することになった。1月7日、ちょうど私の誕生日に昭和天皇の崩御があり、年号が平成に変わった。渡米は2月17日の予定で、それまでに後期試験の実施と採点を全て済ませなければならなかった。その間に入学試験の監督もあって忙しい最中であったが、渡米準備に追われていた。
 今回の渡米は、90年(平成2)1月初めまでの約1年で、目的はミズリー州のカンサスシティーにあるロックハースト大学で「日本の社会と文化」という講義をすることであった。英語での講義なので、せめてノートづくりをしておかないとと気が気でなかったし、英語での適当なテキストがないものかと探していた。
 2月24日に大喪の礼が執り行われ、その模様がテレビ中継され、私はそれをアメリカのテレビで見とどけたのであった。多くのアメリカ人も見ていて、大学に出かけると、哀悼の挨拶をしてくれる学生がいて、私の方が驚いた覚えがある。
 4年前に私は関西大学派遣の「在外研究員」としての米国留学を終えたばっかりであったのだが、人間関係の不思議というか、その時アメリカで知り合った先生が、私を米国に招聘するべく、米国フルブライト委員会に推薦をしたいと言ってきたのであった。推薦書類が送られてきて履歴書と業績書を英文にして返送はしたが、私は半信半疑で駄目でもともとと軽く考えていた。
 私の学生時代にもフルブライト留学の制度はあったが、合格は難関で、私などは応募するまでもなく縁なきものと諦めていた。50代に入ってから偶然舞い込んだ話であるが、合格するとは思っていなかった。
 書類を送ったのが87年(昭和62)の秋のことで、翌88年の春になって推薦が認められたと通知がきた時には驚いたものである。「フルブライト・イン・レジデンス」という資格で、夫婦同伴でキャンパス内での住まいが条件となっていた。驚いたのは私だけでなく家内もびっくりであった。
前回の渡米では、家内と息子たち二人(大学生と高校生)が夏休みを利用して、アメリカにやってきて、1ヶ月ばかりキャンパスの中で過ごしたり旅行をしたりした。家内としては少しばかりアメリカ生活を経験していたことになるが、ほぼ1年間の滞在生活となると、家内の心配が嵩ずるのも無理はなかった。私の心配は、4年前に大学を留守したので、再び許可が出るかどうかであった。招聘決定の手紙が届き、さてどうするか、受諾するかどうかの返事をしなければならなくなった。
 「フルブライト・プロフェッサー」として招聘されるということは、そんなに簡単に起こることではない。英語での講義だから、これは大変だという気持ちがあったが、こんなチャンスは2度とこないだろうと思って、私は受けることに決心した。
フルブライト招聘は名誉なことなので、個々の教員も事務職員も、おめでとう!と言ってくれる。でも急に決まると、事はそんなに簡単に進まない。留守中の私担当の講義とゼミをどうするかを決めなければならず、またフルブライト委員会と受け入れ大学から支給される給金をどう扱うかといった問題、私の留守を休職扱いにするのかどうかといった問題などが議論になったが、全ては円満に解決をみて、「フルブライト・プロフェッサー」としての派遣が決まった。
 正式決定をみて、私は家内と二人の息子に伝えた。下の息子は、このときアメリカのインディアナ州立大学に留学していた。これも全くの偶然であった。私達夫婦には息子と会える楽しみができたのである。息子をアメリカの大学に留学させた時には、そんなことは夢にも思っていなかった。その息子の第一声は「そんなん、よう引き受けたな」というもので、アメリカの大学の実情を知る息子からすれば、私の決心はすこぶる大胆にみえたようであった。それと夫婦同伴が条件であったから、英語の苦手なお母さんがよく承知したなと思ったのであろう。
 89年(平成元)2月17日、私達夫婦はアメリカに向けて飛び立った。カンサス空港にはロックハースト大学のメンバーと、インディアナから車で駆けつけた息子が出迎えてくれていた。 
 私達は、キャンパス内の住宅に案内してもらう積もりでいたら、実は水道管が凍結で破裂して現在修復中で、暫く別の所で暮らして欲しいと告げられる。大学の中の教会の一室か教員のホームステイにするかを問われ、私はホームステイを選んだ。
 家内の手はずでは、家を出るときに用意してきたおにぎりや乾物で、アメリカの新しい家で家族3人で食べる積もりでいたのであった。
 ホームステイは、出迎えに見えていたウルスラ・ファール博士がその引受人ということで、挨拶をすまし、そのまま車で案内される。時間は深夜をまわっていたが、博士の主人も待っていてくれていた。その夜は3人が世話になり、息子は私達の無事を確認して翌朝インディアナに帰っていった。
 家の修復に2週間位かかると言われていたので、その程度のホームステイと思っていたのが、工事が伸びて3月5日に引っ越しとなった。3週間居座ってしまうことになった。3週間も台所もリビングも共同で使わしてもらい、外食や買い物も一緒にさせてもらうと、大変親しくなった。引っ越しの日、ちょうど昼食時というので、女主人はサンドイッチを作って持たしてくれ、お世話になったと別れのハグをしたときには、互いに涙を流していた。
 思いがけないホームステイであったが、私たちにとっては貴重な経験となって、アメリカ式ライフスタイルに早く慣れることができた。車がないと身動きがとれないアメリカだが、幸いにして、大学が車を貸してくれ、空いているときはいつでも使ってよい(使用したガソリンは負担)という許可を得て、車でのスーパーでの買い物など、一戸建ての家での生活はスムースに始まった。

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