第48回 ゼミ卒業生と「井上サロン」

 2007年7月27日(金)、私は関西大学の東京センターに招かれて「関西大学東京経済人倶楽部」の集まりで講演の機会を与えられた。東京駅近くの丸の内のサピアタワー9階にセンターはあった。私が在職している間に、東京駅の八重洲口にセンターは設けられ、そのセンターを訪ねたことがあったが、サピアセンターに移転してからの東京センターは初めての訪問であった。200人が入る教室と中教室程度のセミナールーム、広々としたロビーなどがあって、関係者が研究や研修、講演、談話などに利用できるようになっていた。
 この200人が入る真新しい教室で、私は40分「笑いと健康」のテーマで講演をして、その後交流会が開かれた。関大出身の100人を越える経済人が集まったわけであるが、その中に私のゼミ卒業生が6人来てくれていた。卒業以来一度も会ったことがなくて、名前がすぐに思い出せない人も混じっていた。交流会が終わってからまた飲みに行ったのは言うまでもないが、社会学部のマスコミ専攻で同じだった植条ゼミの卒業生も合流して、暫し飲むことになった。学生時代の話にもどって話題はつきず、笑いも尽きなかった。私は久しぶりに学生とのコンパに浸っているような気分であった。
 次の28日、午後の2時半には、大阪の難波市民学習センターに入るべく東京を出発した。学習センターの催しは、ゼミ卒業生の一人が代表(女性)となって「笑わせ力」プロジェクトというグループを結成するので、それへの出席を頼まれていたのである。和室で、座布団を敷いての会で、落語の披露もあった。私は「笑わせ力」についてのパネルディスカッションに参加をした。この日は私たち夫婦の44回目の結婚記念日で、夕刻には家内と会食の約束していたので、後の交流会は、途中で失礼するとになってしまう。
 人を笑わせるというのはとても難しい。用意したギャグやシャレがすぐに受けるかと言うとそうでもない。笑いには、その場の空気が重要で、それに見合って発せられたユーモアが笑いを生む。今の落語でも、誕生の時には、路上でそぞろ歩きをする通行人を相手に一口噺をしたわけで、その試行錯誤を経て、落語の語り口・芸としての技を蓄積したものと思われる。
 初対面の関係のなかで、あるいは職場のなかで、「笑わせ力」の技を蓄積していくことは可能ではないか。ユーモアは、緊張を解き、相手の気持ちをほぐし、対立を避け、雰囲気を変え、元気をつける効果を発揮する。難しい状況やしんどい空気を変えて、問題を解決する方向に働いてくれる。もっと言うならば「ユーモア・ソルーション」となるわけである。
 この「笑わせ力」プロジェクトのメンバーは、今は3人だが、いずれも「ユーモア・コンサルタント」を目指している。そのうちの一人は既に「ユーモア・コンサルタント」を肩書きにして、企業研修に呼ばれて、「笑わせ力」の実践に取り組んでいる。
 私は思うに、今日までは、笑いをコミュニケーション・スキルとして捉えてこなかったし、そうした学習を何もやってこなかったのではないか。そういうスキルは、プロが演じる「お笑い」の世界にあるだけという認識ではなかっただろうか。学校の教科書に漫才のテキストが載ったことがあるであろうか。「ボケとツッコミ」の会話が、コミュニケーション・スキルとしてもっと研究されてよいし、実生活への応用が考えられてよい。
 こんなことを言っている私自身にしても、「笑わせ力」がなくて、ということはコミュニケーション・スキルを心得ているとはとても言えたものではない。長年、大学で講義を続けてきたが、学生の評価もそうであった。「先生は、日本笑い学会の会長なのだから、もうちょっと笑わせてくれてもよいのではないか」と学生から苦言を呈されたことがあった。
 去る8月4日(土)、第16回目となる井上ゼミ卒業生の会が開かれた。毎年夏に行われているのだが、昨年は私の手術入院のため休会となって、2年ぶりの会となった。私の社会学部での21年間、総合情報学部での9年間の30年間に、私のゼミを終えた卒業生は、幹事に訊くと、647人であると言う。
 1978年(昭和53)の時には、50人のゼミ希望者があって、半分に減らすことも出来ず、2クラスをもつという事態が起こった。当時、私は42才で元気があったが、いくら頑張っても指導が行き届かず、それ以降は学生の希望があっても、2度と2クラスを持つことはなかった。ゼミは3年次と4年次の2年間に渡って続き、学業の総決算として卒業論文を書くことになっている。私のゼミは50枚以上(400字詰原稿用紙)を書かなければならないことにしていて、この方針は30年間変わることがなかった。
 振り返ってみて、私はゼミ生に恵まれていたと思う。学生にとってはどのゼミに入るかは重大関心事であるのだが、希望すれば必ずそのゼミに入れるとは限らないのである。私のゼミは、いつも定員以上の学生の応募があって、そういう意味では頗る恵まれていたと言える。
 私が「日本笑い学会」を設立して、事務局を私の研究室に長年置いてきたが、そのアルバイトにゼミ生の世話になり、また学会の総会を開催するにあたってアルバイトに応じてくれたのも、いつもゼミ生たちであった。
 学生数が多いと、学生と接する時間が少なくなる。私は学生と自由に話し合える場を学外に設けることにし、月に1度であるが、大阪市内で気軽に飲んで話せる会、「井上サロン」という私的なゼミサロンをスタートした。1991年(平成3)7月から始めて、私が退職するまで続けた。定例の曜日だけを決めて、都合のつく人だけが集まるというやり方で、人数の予約なしで受け入れてもらえたのも店のオーナーの厚意があればこそであった。
 最初は現役の学生だけであったが、私は卒業生にも声をかけていった。続けている間に卒業生の出席が多くなっていった。時には私と学生1人という日もあったがサロンを続けていた。「井上サロン」は、教師と学生との関係、先輩と後輩といった年齢を超えて遠慮なく話し合える場になったように思う。私もよくおしゃべりをして、若い彼らに刺激を与えているつもりが、逆に私の方が刺激を受け元気をもらっていたようである。

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