人間には人間特有の「笑いの能力」が潜在的に備わっていると考えてきたが、ではなぜそんな能力が生得的に人間に備わったのかという問題がある。それは人類の長い進化の歴史を経て備わったわけであるから、不必要であったならばそんな能力が生得的に備わるはずがない。人間がさまざまな困難を超え、生き続けるにあたって必要であったからこそ「笑いの能力」が備わったのだと考えたい。
ではどうして「笑いの能力」が、人間が生きて行くにあたって必要だったのかということになるが、私は二つの理由を考えた。そのことに言及した最初は、織田正吉さんと昇幹夫さん、それに私の3人で書いた『笑いの研究』(フォー・ユー、1997)においてであった。それまでの私は人間には潜在的に「笑いの能力」が備わっているのだとしてきたが、何故そうした能力が人間に生得的に備わっているのか、というところまで深く考えていなかった。
『笑いの研究』は、1996年(平成8)に日本笑い学会が誕生後初めて関西を離れて、東京で第3回目の総会をもった時、出版社フォー・ユーのスタッフが会場の江戸東京博物館に見えて、出版の話がもたらされた。笑いを総合的に捉えるという考え方から、私は織田正吉さんと昇幹夫さんの協力を得て3部構成で書き下ろすことを計画した。
序章「なぜ人は笑うか」、第1章「笑いは生活を変える」、第2章「人間関係は笑いとともに」を私が担当し、第3章「笑って健康になる」を昇幹夫さん、第4章「笑いを創造して」を織田正吉さんが担当した。すべて書き下ろしで、97年(平成9)の春に出版することができたのであった。
『笑いの研究』で、私はあらためて「人間は何故笑うのか」の理由について考えた。二つの理由を考えて、次のように書いている。「一つには、人間はどんな時代であっても、個人として心身ともに健康に生きなければならないという至上命題がある」「薬学や医学の知識など皆無の時代にあっても、人間としてこの世に生まれでた限り、心身の健康を望まない人間はいないと思う。その健康に生きるということに、笑いが深くかかわっていると考えられる。つまり、そのために笑いの能力は、人間がもつ自然力の一部として、保全され受け継がれてきたと解釈できる。健康に生きるために笑いが欠かせない」。
次は二つ目の理由である。「人間は一人では生きられず、複数の人間と共同生活をしなければならないという至上命題である。複数の人間と共同生活をするということは、そこに何らかの人間関係が生じるということを意味する。そこには必ず、緊張が生じ、対立が生じるもので、そのことに笑いがかかわっていると考えられる」「家族間の人間関係であろうと、近隣関係であろうと、集団間の関係であろうと、緊張が発生し、対立が生じれば、どのように緊張を解き、対立を解消するかは、重要な問題となる。笑いがそうした緊張や対立を緩和するのに役立ってくれる。互いの距離を縮め、平和的関係をつくっていくのに笑いは欠かせない」。
簡単に言えば、個人が心身ともに健康に生き、同時に共同生活を親和的に生きるために、笑いは必要不可欠なものであるということである。まさにそれ故に「笑う能力」が人間に与えられているのだと考えたわけである。「笑う能力」を備えて生まれつき、その能力の活用で人間が生きていくと考えるならば、人間は「笑う存在」と捉えることができる。
「笑う門には福来る」という古くからの言い伝えの「福」は何を意味しているのであろうか。この「福」には3つの意味が隠されているように思われる。一つは心身の健康であり、二つ目は、仲間と仲良く暮らせる幸せというものであろう。それにもう一つ、天変地異のない安全・安心、自然の恵みがある。笑えば自然の神も笑ってくれて恵みがもたらされるという考え方である。
山口県防府市小俣地区で、今日もなお行われている800年以上の伝統をもつ「笑い講」の実施は、人間が笑えば神も笑ってくれるであろう、神が笑えば豊作がもたらされ、恵みがもたらされて、人間に幸せがもたらされるという信仰を基礎にした神事として執り行われている。
私は、ここでは「健康の幸せ」と「家族をはじめ仲間と仲良く暮らせる幸せ」の「福」を「笑い」が招き寄せてくれるということを強調しておきたい。つまり笑いは「心身の健康」に深く関わり、同時に「人間関係の構築」に深く関係しているということを確認しておきたいと思う。
私たちは笑うことが何となく健康によいし、人間関係にもよい効果をもたらしてくれていると感じている。しかし、笑いが健康に確かに良いという科学的研究は、最近までなされてこなかった。薬学や医学の発達を思えば、笑いが心身に及ぼす科学的研究があっても不思議でないはずなのだが、それがなされてこなかったのである。
笑いが健康に大きな影響力をもつことを、社会的に問題提起した人にアメリカ人のノーマン・カズンズ(1915-1990)という有名なジャーナリストがいる。笑いを治療に取り入れて、難病の膠原病を克服したのである。その体験記は1979年に出版され、内外に大きな反響を巻き起こした本として有名である。『笑いと治癒力』(松田銑訳、岩波書店、1996)の名で翻訳されている。
笑いがどのように体内に影響をあたえたのかという生理学的なメカニズムについては何にも書かれていないのであるが、カズンズの考え方はよく書かれている。「ネガティブな感情を溜め込めば、身体にネガティブな化学反応が現れ、ポジティブな感情を溜めればポジティブな化学反応が現れる」という考え方である。
アメリカでは80年代に入って、笑いと健康の関係についての医学的実験が始まるようになる。日本では90年代に入って、免疫を担うNK細胞と笑いとの関係についての実験が行われるようになった。笑う前と笑った後とでは、免疫系で内分泌系で、あるいは脳内でどんな変化が起こるかを調べる医学的実験が進んでいくことになったが、まだまだ分からないことが多い。更にこころの変化の問題となると、一層複雑で、笑う前のこころの状態と笑った後とでどんな変化が起こるのか、経験的には納得するものがあっても、その心理的メカニズムの解明はこれからの課題と言わなければならない。