第46回 人間の「笑う能力」

 前回で「新生児微笑」について触れたので、その延長で私の「笑い学」の基礎になる考え方について書いておきたいと思う。「笑う能力」の問題と「笑う能力の開発」、それに「なぜ人間は笑う能力を持って生まれつくのか」という問題である。
 前回では、人間はそもそも「笑う能力」を備えて生まれつく存在で、その「潜在的笑い力」がこの世で初めて顕在化したのが「新生児微笑」なのだと述べた。「新生児微笑」には、何とも言えない可愛さがある。気がついた人なら誰もが可愛いと思うに違いない。これを形容してまさに「天使の笑い」というわけで、「エンジェルスマイル」と呼ぶ人もある。しかし、気がついても、それは身体的に生じる一種のけいれんだと解釈する人もある。私はそんなことは絶対にないと思っている。それは赤ちゃんが母親に対して本能的に出すサインであって、私はここから人間の笑いが始まるのだと考えている。言い方を変えれば、人間の遺伝子のなかに「笑う能力」が秘められていて、その最初の開花ではないかと思うのである。
 今回問題にしたいのは、どうして「笑う能力」が潜在的に人間に備わっているのかということである。果たしてそれは人間だけがもつ能力なのかどうかということが問題となる。最近は、ペットの犬を飼う家庭が増えて、家族同然に犬を可愛がる人が増えてきた。人間と同じ生活空間で飼うものだから、犬も家族化してしまい、「我が家の犬は笑っている」と主張する人が増えてきた。犬は笑うのだろうか。
 動物学者の見解では、サル、チンパンジー、ゴリラなどの霊長類では、ある限られた場面で、笑いの表情をしたり声をあげたりする場面があるという。しかし、仲間同士で洒落やジョークを解するなどということは考えられないだろう。
 笑いの表情は表情筋の発達したレベルに達して初めて見られるもので、そういう点からすると、犬は笑うとは言えないのだが、喜んで人間にすり寄る犬の表情は笑っているように見えてしまうようだ。私は、ペットを強く擬人化しているからそう思ってしまうと思うのであるが、そう思うことで癒されるということであれば、それはそれでかまわないとは思う。鳥だって機嫌のよい時にさえずる声は、笑いの声ではないかと思えば、そうかも知れないし、そう思って聞きとってもよいわけである。花の好きな人で、世話をしている花が笑っているんですよ、と言う人がいても、その人の心がそう感じておれば、それはそれで結構なことと言わなければなるまい。
 通常、「笑い」を問題にしているときは、人間の「笑い」を問題にしているのであるから、その場合の「笑い」の概念を明確にしておかなければならない。「笑い」の概念は、笑いの表情を示したり笑い声を発したりするノン・バーバルの表現から、言葉でもって洒落を作りジョークを言い交わすというレベルまで含んだ概念であるという点を押さえておきたい。このような概念で「笑い」を考えると、それはもう人間にしか認められないものであることは明白である。
 笑いの表情や笑い声とコミュニケーション・会話の笑いは相互移行的で、連続的な営みとして考えておきたい。
 「新生児微笑」を契機にして、赤ちゃんが見せる笑顔は、母親との相互関係のなかで成長を遂げていくことは確かで、赤ちゃんは言葉を操ることはないが、笑顔で立派なコミュニケーションを果たしている。
 私は人間の笑いは「新生児微笑」から始まって、成長してのワッハッハの笑いまで、連続してあるものだと考え、その根底には「笑いの能力」が潜在的に秘められてあって、それが外部環境との相互関係において、徐々に顕在化していくものと考える。従って幼児の段階で親から無視され、緊張を強いられて育った子供は、笑うことを覚えず、表情のない子供に育ってしまう。つまり「笑う能力」の顕在化が阻害されてしまうわけだ。あるいは、若いときにはよく笑っていたのに苦労の連続で年をとり、ふと気がついたら笑顔は消え、人が笑っているのに自分は笑えない、そんな自分に気がついたという人もある。笑いを忘れて過ごすなかで、「笑う能力」は抑えられたままであったというわけである。
 「笑う能力」は誰にでも潜在的にあるものの、育つ環境、人間関係のなかでの相互作用で、顕在化していくものだと思われる。特に家庭の影響が大きいし、学校の影響も大きい。ひいてはどんな社会と文化のなかで育つかによって、「笑い」に対する態度も影響を受け、どんなユーモアセンスを身につけるかも影響を受けると考えられる。

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