「大阪人が二人寄れば漫才になる」と言われたり、漫才は日常の「茶飲み話」や「立ち話」の延長と言われたりするように、漫才には、庶民の生活を写し出す側面がある。ボケとツッコミによって交わされる会話は、庶民の生活のなかにあるコミュニケーションの方法であり、漫才はその方法を舞台芸として取り込んで、笑いを作りだしているわけである。舞台芸の漫才は、表現に一層磨きをかけて工夫を凝らすのはもちろんであるが、その土台は大阪人の日常生活にあると言ってよい。
私はそんな考えから、「大阪の笑い」の特徴を捉えるのに、「漫才の笑い」の類型を探ればよいのではないかと考えた。実際に「漫才の笑い」の分析をし出したら、それ自体が同時に漫才そのものの笑いを作る方法、「マンザイツルギー」とでも呼べるものを明らかにすることになると思うようになった。
舞台での漫才は、15分から20分ぐらい演じられる。一定のテーマや物語が設定され、初め・中・終わりという展開のなかで「笑い」が作られていく。テレビになると、これが4~5分と短くなってしまうから、物語性を考慮しても深追いはできず、瞬間的な「笑い」を作り出そうとする。瞬間のギャグ芸で勝敗を決めるという番組になると、物語性などは考慮されなくなる。
瞬間的なギャグだけで笑わせる「笑い」もあるが、もっと深い笑い、笑った後に満足感が残るような笑いということになると物語性が必要だ。物語に引き込まれて前の笑いが次の笑いを誘い、笑いがだんだんと嵩じて行って最後に大笑いさせられる。涙して笑うという場合もある。こうした笑いはテレビから消えてしまったと言ってよいのではないか。
ダイマル・ラケットややすし・きよし、いとし・こいしの漫才が何故面白かったのか。彼らの漫才には、テーマと物語があった。例をあげるなら、ダイマル・ラケットの「地球は回る目が回る」や「家庭混戦記」、やすし・きよしでは「同窓会」や「男の中の男」などがあげられよう。かの有名なエンタツ・アチャコの「早慶戦」も物語性がある漫才だった。
物語の展開は一様でなく、実際にある話に見せかけて架空の話であったり、小さな出来事が途方もなく誇張されたり、まさにボケとツッコミのやりとりが、変幻自在な展開を示すのである。笑いを作りだす方法も一様ではなく、一つの物語の展開の中で、複数の方法が使われるのは当然であるが、漫才によっては、一つの方法で全体を一貫させる場合もある。
漫才は落語と違って殆どが活字に起こされていないので、テープを聴きながら「笑い」を書きとめていく必要があった。「笑い」をカード化していくと、いくつかのタイプが見えてきた。それまでの私の漫才視聴体験を加味して、私は8つのタイプに整理をしてみたが、概ねこれで漫才の「笑い」が説明できるように思った。
その(1)は、「洒落」である。同音異義、語呂合わせ、づくしもの、なぞなぞ、問答、オノマトペ(擬声・擬態語)など、ことばの遊びから生み出されたものである。このタイプの笑いは非常に多い。今のWヤングではなく、その前の中田治雄・平川幸雄コンビのWヤングは、全編を洒落づくしで通すという「洒落漫才」を作りだしていた。
(2)「悪態」~相手をいかに落とすか、面白い表現でもって悪態の付き合いをするのである。相手の容貌から性格、スキャンダルまでを持ち出して、悪態合戦を演じる。明るく演じられる言葉の合戦は、表現に工夫があって面白いのである。今でも、終始「悪態」をつきあって、いかに面白い表現で相手を落とすかを競い合った若井小づえ・みどりのコンビが思い出される。
(3)「ホラ」~大言壮語、誇大妄想、大ボラ吹き、奇想天外なアイディアなどホラであることは明らかであるのだが、うそが描く空想が人を笑わせる。ホラがどんどんと大きくなると、これがまた笑わせる。
(4)「脱線」~ツッコミが一つのテーマなり物語を展開していくのだが、途中でボケが不意に脱線してしまう。ツッコミが元に戻そうとするとまた脱線する。単に脱線すればよいというものではなく、脱線先が重要で、その時代のなかで目立った風俗や現象・時事などへと脱線していく、この的をえてのズレが笑いを呼ぶ。
(5)「混戦」~ボケとツッコミが共通の話をしているのだが、実は双方が別々のことを考えていて、話がもつれてこんがらがっていく。言葉の取り違えもこの中に入る。こんがらがって混沌としていくと、聞く方も混沌のなかに誘われて笑ってしまうのである。ダイマル・ラケットの「家庭混戦記」などは、まさに「混戦漫才」であった。
(6)「屁理屈」~進歩した科学技術が、科学の理にはかなっていても、私たちの日常感覚からすれば違和感を覚えるような成果を生み出す。そこで敢えて日常的感覚に固執する「屁理屈」を一貫させると共感の笑いが起こる。ダイマル・ラケットの「地球は回る目が回る」の漫才は、まさにこのタイプの漫才であった。
(7)「真似」~声帯模写から形態模写、動物の動作から鳴き声の物まねまで、さまざまな物まねが笑いを誘う。方言や外国語の真似もこの中に入れられる。ツッコミの真似をボケがして、そのボケ振りで笑わせるのもこの中に入る。
(8)「狡猾」~ボケがちょっとした知恵を働かせて楽な方にまわって得をしようと、狡い役回りを演じる。世間の建前からずれた本音の主張が笑いを呼ぶ。「ぼやき」はこの範疇に入る漫才である。
以上の8類型であるが、類型が類型だけで終始すると、例えば「洒落」づくしで一貫すると「洒落漫才」になるし、「悪態」で一貫すると「悪態漫才」、「脱線」だけだと「脱線漫才」になる。終始ぼやきまくると「ぼやき漫才」になる。