第43回 大学で「大阪論」を講義

 連載も43回まできてしまった。思いついた話題で始めればよいわけだが、どうしても年次的経過を追っかけてしまうことになる。1985年(昭和60)のアメリカ留学の結果から『テレコム社会』が誕生することになり、暫くメディア系の話が続いてしまったが、ちょっと時代を遡って、「大阪の笑い」に話を転じてみたい。
 1980年(昭和55)に「漫才ブーム」がやってきた。この時生まれた人が既に27才となっているのだから、あの時の異常とも言える「漫才ブーム」を知らない人たちが増えていても不思議ではない。
 ブームは劇場から起こったというよりもテレビから起こり出した。期せずして大阪と東京に新人が育っていて、テレビの演芸プロデューサーが、それら東西の新人たちをうまく組織し、ベテランの漫才師と組み合わせて番組化することに成功した。
 この時のブームは、世代を超えて全国を席巻するブームとなった。東西の新人グループを核として、それを取り巻いて年配層にも受ける中堅・ベテラン漫才グループが活躍して実現したブームであった。
 新人では、大阪からザ・ぼんち、紳助・竜介、B&B,オール阪神・巨人、のりお・よしお、東京からツービート、セントルイス、おぼん・こぼん、コント赤信号などが大挙して登場した。そして回りをかためるベテラン漫才師も健在であった。やすし・きよし、ダイマル・ラケット、いとし・こいし、人生幸朗・生恵幸子、唄子・啓助、てんや・わんやなどがいた。
 そんなお笑いブームが広がって行く最中、1980年(昭和55)の4月から関西大学で「大阪論」という講義が始まった。教養課程での「総合コース」として、全学部の学生が受講できる形をとって、各学部から集まった9人の教員が担当した。歴史、経済、経営、建築、文学、大衆芸能、都市などの分野に分かれて、それぞれの専門から大阪を論じるという講義であった。私は、「芸能学」を専門にするわけでもないのに、「大阪論」のテーマに惹かれて参加した。教壇で上方の漫才や落語の話ができるなんて、こんなおもしろいことはないではないかと思ったのである。
私は「大阪の大衆芸能」を担当して、それをともかくも3回の講義でまとめなければならないということになった。2年継続の講義であったが、全学部共通科目であったから、ものすごい数の受講生がいた。500人ぐらいが入る大教室が当てがわれて、毎回講演をしているような感じであった。同じ講義をもって、社会学部、法学部・文学部、経済学部・商学部、工学部、2部(夜間部)というように、大きい教室ばかり5箇所をまわるのである。学生の関心が高いのは嬉しかったが、かくも多くの履修生が現れると、ほんとうはお手上げだが、私も初めての経験で、まだ若くて元気もあったから担当できたのではないかと思う。
 講義の担当者も多く、受講生も多いとなると、試験をどうするかが難しいわけだが、無難なのは、各担当者が1題づつ出して、学生はそれらから1問選択で答えるという方法である。実際そのような試験の仕方になったのであるが、蓋をあけてみると、私の問題に多くの学生が殺到してしまい、採点に大汗をかいた覚えがある。「漫才ブーム」の中での講義であったから、学生の関心が高かったのも無理のないことであった。
 こうした特別の講義は、正規の授業以外のものとして担当するので、私はまた余分な仕事を引き受けることになったわけである。忙しくはなったが、「大阪の笑い」について勉強するよい機会になったことは間違いない。私は大阪の大衆芸能を取り上げ、特に漫才をクローズアップして大阪を考えようと講義ノートを作り出した。
 私のなかには、まず大阪という都市には、古くからどうして「笑いの文化」が発達をみて今日もなお盛んなのか、笑いの好きな人が多いのは何故なのかという問題意識があった。大阪という都市の成り立ち、商業都市としての特徴、商人の生活文化について関心があった。「大阪の笑い」と「東京の笑い」の比較も、両者の都市の歴史を抜きにしては語ることができない。
 私は「商人の街」を「ヨコ型社会」として、「サムライの街」を「タテ型社会」として特徴づけて、「ヨコ型社会」の中で発達をみた商人としての生活文化が、「大阪の笑い」を生み育てたのだと考えた。大阪人にとっては、毎日の生活のなかに笑いがあり、その「笑いのある生活」から笑いの芸能が生まれ、それが連綿として今日にも受け継がれていると考えていったのである。
 「大阪の笑い」を具体的な形で捉えるにはどうすればよいか。アンケート調査や街頭インタビューをしたからと言って容易に捉えられるものでもない。私は漫才に例を見出すのがよいのではないかと考えた。何故なら漫才は、日常生活に近いところにあって、それを言葉の言いまわしで表現するところに特徴があるから、漫才の笑いは、大阪人の笑いの反映と考えてよいのではないかと考えたのである。「漫才の笑い」の分析を通じて、大阪人がどんな笑いを笑っているのかを明らかにしてみようと思ったのである。
 ではどんな漫才を取り上げるかであるが、それまでに聞いてきた体験を通じて、私はダイマル・ラケットの漫才がよいのではないかと思った。それには、1978年(昭和53)に「笑学の会」主催で「ダイマル・ラケット爆笑三夜」を開催し、3日間集中してダイマル・ラケットの漫才を聞いたこと、そして後にCBSソニーからダイマル・ラケットのレコードを出すについて、また何度もテープを聞き直していたことが影響していたと思う。
 何度も聞くうちに、私は「漫才の笑い」にいくつかの類型(パターン)があるように思えだした。これまでに聞いた漫才やテキストになっているものも含めて、私は直感的に8つの類型を思いつき、講義のなかで紹介していった。
 「大阪論」の講義を持ったおかげで、その講義ノートを中心にして、『まんざい~大阪の笑い』(世界思想社、1981)という本を上梓することができた。表紙を成瀬国晴氏にお願いして、やすし・きよしの似顔絵で飾り、漫才の本らしくしたのであったが、売れたとは言える程の本にはならなかった。しかし、私としては漫才研究に一石を投じることができたのではないかと自分なりに満足していた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください