第40回 アメリカでの家族旅行

 1985年の我が家は4人家族で、私は日本に家内と大学生の長男、高校3年生の次男を置いて留学していた。アメリカに出発するときは、夏休みに家族をアメリカに呼ぶとしても、次男は受験を控えているから無理かもしれないと思っていた。しかし、実際にアメリカに渡って、自分の目でアメリカを見てからは、家族全員を呼びたいという気持ちになった。
 私がアメリカに滞在するのは、もう2度とないかもしれないし、家族にアメリカを見せるチャンスはこの機会をおいてないだろうと思い、夏休みを利用して家内と子供二人をアメリカに呼ぶことにした。
 まずインディアナ大学で暫く暮らし、そこからシカゴ、ワシントン、ニューヨーク、ボストン、ナイアガラそしてシカゴに戻って、家族はそこから帰国するという行程を立てた。12日間のアメリカ国内旅行は、すべて飛行機に頼ることにした。
 授業の合間をぬっては、ダウンタウンの旅行代理店を何度か訪ねて、飛行機のチケットとすべてのホテルの手配をした。何しろ初めての旅行の手配なので、勝手がよく分からず予約してからも本当に大丈夫かと確認に出かけたりもした。
 家族をキャンパスに迎えるには、私が入寮している独身寮から家族寮へ引っ越しをしておかなければならない。いったん独身寮を空にしなければならないので、車を持った友人に手伝ってもらって荷物を運んだが、家族が暮らすには食器や寝具なども用意しておく必要がある。私が感心したのは、食器や調理器、寝具などすべて大学が貸してくれるというのであった。その食器などどこに借りにゆけばよいのかと訊けば、家族寮に入る日には、すべてを部屋に運んでおくというのであった。
 7月12日に引っ越しをして、家族を迎える準備をした。家族は、15日にシカゴに到着。私自身がシカゴまで出迎えに出て家族と再会。ローカル航空のブリット・エアーウェイに乗り換えて、ブルーミントンに到着。友人のワゴン車に出迎えを頼んでおいたので、3人分のトランク、荷物を積み込んで、キャンパスの家族寮「キャンパス・ビュー」に辿り着いた。まずは、無事に迎えられてやれやれという気持ちであった。
 16日は食料品などの買い物をしたが、アメリカ式の大型ショッピングセンターを見るのは初めてだし、ショッピングカーも大きいなら、牛乳のボトルも大きくて、何でも大きいので、家族の驚きは絶えなかった。17日からは子供たちは、勝手にキャンパスに飛び出して、プールに行ったりテニスをしたり、大きなアメリカのキャンパスをエンジョイしていた。
 次男は受験を控えていたので、勉強道具を持ってきていたが、アメリカまできて参考書を広げているのも馬鹿げてみえたのか、専らキャンパスを駆け回っていた。私は、2度と経験できないかもしれないのだから、自分の目でアメリカの大学を見ておくのはよいことだと、するがままにまかせておいた。
 夜には、大学で毎夜のように催される音楽会やオペラに連れて行った。日本では見たことがないオペラやオーケストラを見たのだから、どんな勉強になったのかは分からないが、何らかの体験にはなったであろうと、親なりに自己満足していた。
 家族が来たので、私が日頃お世話になっている日本人留学生やアメリカ人学生などを家に招いてパーティーを開いたのも忘れがたい出来事であった。家内が持参してくれたうどんや蕎麦など日本食が結構役にたって喜ばれたのである。
 8月4日まで、家族はインディアナ大学に滞在、まる3週間いたことになる。5日にシカゴに向けて出発、2泊する。博物館の大きさに度胆をぬかれるが、総じて街の建築物の美しさに目を見張ったものである。通りを歩いていたら、ミュージカルの「キャッツ」が公演されていた。家内は日本で、四季の「キャッツ」を見ていたので、アメリカのも見ておきたいということになり、時間も丁度間に合うというタイミングのよさで、「では入ろう」と、まさに衝動的な鑑賞となった。
 7日にはワシントン入りをして、ホワイトハウスの見学、バスでの市内見学、美術館、博物館、スペースミュージアムなどを回る。2泊して9日にニューヨークに入る。この当時のニューヨークは治安が悪く、地下鉄は避けた方がよいとか言われていた。
 日本人の知人に案内をしてもらって、ミュージカル「42ndストリート」を家族で鑑賞。夜の11時頃に終わったと思う。知人からは車で迎えに行くので、決して歩いてホテルに帰らないようにと注意を受けていた。劇場内は清潔であったが、一歩街路に出ると、ごみが散乱して、これがミュージカルのブロードウェーかと驚いたものであった。ニューヨークでは3泊した。
 12日にボストン入りをするが、その時の空港で売られている新聞で、日航ジャンボ機墜落のニュースを知った。群馬県上野村の山中に墜落し、520名の犠牲者をだしたという。大惨事である。飛行機旅行をしている最中にあっては、何となく飛行機への心配が走るが、予定通りにそのまま旅行を続ける。
 ボストンでは、ハーバード大学を見学し、チャールズリバーの岸辺をMITまで歩く。長男の希望でMITも見ておきたいということになり、タクシーにでも乗ればと後悔するほど汗をかいて、やっとMITに辿り着いた。ボストンでは、美術館で日本のコレクションが多いのに驚いたが、暑い盛りにチャールズリバーに沿って歩いた印象が一番強く残っている。
 14日にはナイアガラに出向き、船に乗って合羽をかぶり滝の下をくぐる。滝の規模の大きさに驚いたが、水しぶきを浴びて騒ぎ合ったのも楽しい出来事であった。陸上では観光ツアーのバスに乗る。運転手が英語で案内するツアーであったが、見所を知るのには役立った。
 15日にはシカゴに戻って1泊し、16日は朝から空港に行って、家族を見送ることにするが、出発が8時間ぐらい遅れてしまう。日航機の墜落事故の影響で、各機とも点検に時間がとられているのであろうと思うしかなく、私はシカゴにもう1泊することになる。 
 とにかく家族は合計33日間、アメリカに滞在し、そのうち12日間の飛行機旅行は、我が家にとっては、かけがえのない旅行となった。日本国内でそうした家族旅行をしたこともなく、いきなりアメリカでやってのけたのだから、大きな思い出を残したと言える。
 この時はまだ夢にも思わなかったが、このアメリカ滞在がきっかけとなって、次男はアメリカの大学に留学する道を選ぶことになった。私は、後にアメリカのフルブライト委員会から招聘を受けて再度渡米することになるが、この時は、そうなることなど思いもしなかったことであった。

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