第4回 兎を連れて大阪に戻る

 1945年(昭和20)8月15日、日本は戦いに敗れて、戦争終結の「玉音放送」が、正午にラジオを通じて流された。お天気のとても良い日で、私は朝から近くの池に一人で魚釣りに出かけていた。昼が近づいてきたので家に戻ると、庭先に人が集まってラジオに耳を傾けていた。戦争が終わったことを教えられた。「やっぱり負けたか」という思いで、特別の感慨を抱くことはなかった。父親は、商人としての判断から、早くからこの戦争は負けると言っていたので、その影響であったと思う。「負けた」と聞いて驚きはなかった。終戦の日は、私には「真っ青に晴れ渡った暑い日」という印象として残っている。
 小学校4年生であるから、「将来何になりたい?」と訊かれれば、「軍人さんになりたい」と答えて不思議ではない時代であったが、私にはそんな考えは全くなく、勉強が嫌いで、先生方の言うことを余り聞いていなかったように思われる。野原や河原の自然が好きで、虫取りや魚釣りに夢中になっていた。不思議なことに、1年生から4年生になるまでの先生の名前と顔を思い浮かべようとしても、誰一人浮かんでくる人がないのである。不思議と言えば不思議である。
 父親は、売り食いをしながら田舎で長く暮らすのは困難と考えたのであろう、と言って焼土と化した大阪にすぐに戻れるわけはなく、大阪に出やすい所に居を構え直すことを考えた。滋賀県大津市の粟津にいったん引っ越して、そこから大阪の復興ぶりを見ることにしたのである。家は粟津駅の間近にあって、琵琶湖が歩いて10分ぐらいのところにあった。川ではなかったが、瀬田川の流れの手前に位置していた。魚釣りをしたり泳いで遊ぶのに適していて、私は気に入っていた。
 私は中洲小学校から膳所小学校に転校となった。4年生の秋頃であったと思う。粟津の家では、家に隣接してかなり大きな畑があった。自給のための野菜を作り、鶏も数羽飼っていた。私は兎を飼ったし、犬も飼った。そうした動物の世話は専ら私の役目であった。疎開先での田舎で身につけた生き方が、結構役にたったわけである。野菜の種類も多く、面積も広かったので、農家のおじさんが時々手伝いにきていた。何でもできるおじさんで、生きた鶏のさばき方なども教えてくれた。
 兎を飼うのは、友だち仲間の間で流行っていて、自分の兎を持ち寄っては、自慢し合って遊んでいた。毎日の餌取りが大変であったが、磯崎という仲のよい友人と一緒に取りに行くのを日課としていた。
 父親は、畑仕事もしたが、時々は大阪の様子を見に行っていた。売り食いと畑からの収穫では、家計は楽ではなかった。大阪の闇市でズルチン(人口甘味料)が売れるからというので、その自家精製を手伝ったことがあった。石鹸も作って売りに行っていた。父親は、何とかして収入を得るのに必至だったようだ。
私と言えば、兎や鶏の餌取り、それに琵琶湖が近くだったから、魚釣りにも忙しかった。釣った魚は自分で料理して家族の食に供していた。夏には、毎日泳ぎに行き、魚や蜆をとって帰るのが楽しくて仕方なかった。
とは言うものの、勉強にも少しづつ目覚めだし、4年生の終わりには、通知簿に初めて4が現われた。5段階評価であるが、それまではオール3がいつもの成績であった。本を読む楽しさを覚えだしたのも、5年生ぐらいからだったようである。学校の先生の影響が強かったと思う。仮名のふった講談全集などを特別に貸してもらった記憶がある。6年生になると、クラスでも目立つほどに成績がよくなっていた。担任の女の堀内先生が、滋賀教育大付属の中学校を受験しないかと薦めてくれる。クラスでトップの種村君という優秀な男の子がいて、二人して受けろということになり、受験したが、私だけが落ちてしまった。私にしてみれば、成績は上昇してきていたが、彼ほどにできたわけではないので、落ちても無理はないと諦めははやかった。
 1948年(昭和23)3月に私は膳所小学校を卒業した。1年生から数えて4つの小学校を転々としたが、一番よく覚えているのは在校期間も長かった膳所小学校である。卒業以来会ったことがないが、今でも年賀状の交換をしている友だちが2人いる。
 父親は、大阪の復興を確認して、昭和23年の春に大阪に戻ることを決心する。私は地元の中学校にいったん入学するが、早々に大阪の中学校に転校することになった。新しい大阪の家は、南区の日本橋3丁目にあった。大阪に戻るについて、私は飼っていた兎と別れ難く、どうしても大阪に連れて行くと言い張って、兎小屋と一緒にトラックで運んでもらった。裏庭で兎を飼う場所はあったが、餌に不自由をすることになり、親の勧めで、兎は売られていった。兎を手放すことはショックであったが、それを機に私は都会に適応して行くことになった。