インディアナ大学に留学して、一番難儀したのは英語の聞き取りであった。テレコミュニケーション学科では、どの授業でも聴講が出来る許可を得ていた。何しろ初めてアメリカの大学の講義を覗くのだから興味津々であった。大講義室での講義、小教室でのゼミナール、スタジオでのラジオ実習などにも顔をだした。
そのうちに慣れない英語も耳に親しんでくるであろうと思っていたが、リスニングはそう簡単にはいかなかった。聞き取りやすい英語、聞き取りにくい英語があることが分かってきた。私の聴覚のあるチャンネルに乗ってくれる音は聞き取れても、ちょっとチャンネルがずれると、もう分からなくなってしまうという感じであった。
リスニングはもっと若いときに訓練しておくべきだったと後悔するが、嘆いていてもはじまらない。でもアメリカに来たのだから頑張ってみようと思い立った。そこで大学の言語学部で開講されている夜学の英会話教室に通うことにしたのである。週2回の3ヶ月コースであったが、まず申し込みに行くと、その場で簡単な会話と筆記テストを受けることになった。この成績でクラス分けをするという次第だ。この夜学コースは、外国人に英会語を教える目的で、授業料は安く設定され、留学生やその配偶者などが受けにきていた。私は上から2番目のクラスに編入されて授業が始まった。
授業の最初に、あらためて筆記とヒアリングのテストが行われた。まずは、実力の確認である。最初の先生はアメリカ人であったが、この先生はたまに顔をだすだけで、2回目からは、アラブ出身の先生やタイ出身の先生が現れた。彼らは言語学部の大学院修士課程の留学生で、外国人に英語を教える資格をとるために勉強しているのであった。私たちがその実習用の学生になったというわけである。授業料が安いのももっともなことであった。英語というのは、国によって発音に癖があり、日本人がジャパニーズ・イングリッシュを話すように、アラブとタイの先生にも訛りがあって、なんだか変なのである。これで英会話が身に付くのだろうかと心配になるが、こういう人の英語も聞き取れるようにならないといけないのではと思って真面目に出席した。
最後の授業で、終了テストが実施された。筆記とヒアリングである。途中でこのテストは、どこかでやったことがあるな、ということに気がついた。そうだ、第1回目の授業の時に受けたテストと全く同じではないか。
後でテストの結果を知らされ、答案が返ってきた。不思議なことに初めに受けたテストと点数が同じである。最初の聞き取りで間違ったところを、再び見事に間違っていることが分かった。私は思ったものだ。初めと終わりとで全く同じ点数ということは、全然変わっていないということが証明されたということである。
私は笑ってしまった。僅かの期間、教室に通ったら上達できると思っていたのがいけなかったのだ。そんな自分がおかしくて、私は笑ってしまったのである。向上心もよいが欲張るものではないと、自分を笑ってしまうと、何故だか気持ちが楽になる。それ以降、私は慌てずさわがず、今の自分のままでやっていこうと思うようになる。すると変な落ち着きができてしまったようだ。「あなたは何年アメリカにいるのか」という質問を受けたこともあった。会話教室に通った意味はあったわけだ。
どうしても英語を話さなければならないという状況に追い込まれると、それなりの応対に迫られる。そんな場面を何度となく経験していくと、会話の要領を覚えていくということになろうか、度胸がついてしまうということであろう。
寮に入っていたので、三度の食事は食堂で取ることになる。夕食時が時間もたっぷりあって、食堂は賑わい、テーブルを囲んであちらこちらで談笑が盛り上がる。夕食はくつろいで食べたいということであろうか、国別のテーブルができるのであった。コリアン・テーブル、チャイナ・テーブル、アラビアン・テーブルとかができていた。ジャパニーズ・テーブルもできることがあったが、それほど目にはつかず、日本人は比較的散らばっていたようである。
日本人留学生は、難しい試験を受けて来ている大学院の学生ばかりで、英会話も巧みである。アメリカ人とテーブルを一緒にするときは、日本人学生も流暢な英語で話す。その中に私も混じって食事をすると、当然英語で話さなければならなくなる。上手な日本人学生からすれば私の英語は見劣りがしたと思うが、ここでも私は自分流で居直っていた。しかし、他の留学中の日本人大学教授は、英会話の苦手な人が多く、そうしたテーブルには最初から着こうとしなかったようだ。私はそれではアメリカ人学生と親しくなれないと思って、積極的にテーブルの談笑に加わるようにした。下手な英語であろうと何であろうと、よいではないかと考えたのである。結果的には、日本人留学生からもアメリカ人学生からも好感を持たれたのであろう、他の場所で出くわすと、気軽に声をかけてくれたりした。いつの間にか人の輪が広がっていて、私が帰国するときに開いてくれた「さよならパーティ」には、大勢の若い友人がかけつけてきてくれてびっくりしたものである。