第36回 インディアナ大学に到着して

 1985年(昭和55)3月31日、単身で伊丹空港を立って羽田経由でアメリカへと飛び立った。49才での時である。機内持ち込みの荷物がとても重かった。というのは、ノート型のワープロとプリンターを大事に抱え込んでいたのである。富士通から出た最初の小型ワープロであったと思う。英文も和文も打てるし、これで原稿を書こうと意気込んでいた。
 シカゴ空港でブリット・エアーというローカル航空に乗りかえなければならなかった。インディアナ大学のあるブルーミントンという街に直接降り立つには、これしか方法がなかった。シカゴでの乗りかえでは小さなローカル航空のカウンターがなかなか見つからず、大きな荷物を抱えて右往左往し、乗り換え時間が迫ってきて、汗をびっしょりかいたのを思い出す。
 ブリット・エアーの飛行機を見てびっくり、余りにも小さなプロペラ機であった。ブルーミントンに着いたのは、午後六時半頃。前もってお願いしていたインディアナ大学の北谷賢司先生が車で迎えにきてくれていた。空港と言っても、タクシーもバスもなく、公衆電話があるだけで、回りは一面の野原でホテルらしきものも何もない。その夜一泊だけ北谷先生の自宅でお世話になった。ベッドに身を沈めると緊張が解けたのか、疲れがどっと出て深い眠りについた。先生には感謝あるのみであった。
 翌4月1日は月曜で、私は大学に出向いて、まずIDカードを取得する必要があった。これがなければ、入寮の手続きができない。広大なキャンパスの中では、事務の窓口を探すのも大変で、北谷先生は大学院で学ぶ日本人留学生を紹介してくれていた。その女子学生と落ち合って、必要な窓口を回ることになった。もし一人で回るとなったら、広大なキャンパスで途方に暮れていたに違いない。
 書類を書いたり身分証明の写真をとったり、事務のアメリカ人女性と会話をすることになったが、私が感心したのは、どの事務所を回っても窓口の女性の笑顔が素晴らしかったことである。聞き取りも話すことも十分でなかったが、女性たちのにこやかな笑顔に私は救われた気持ちであった。
 写真付きのIDカードを手に入れて、必要なお金を払い寮の部屋も決まった。寮生活には食事のミールカードが必要で、その購入もできてやれやれと思った。部屋は単身部屋でベッドと机、荷物入れの押し入れだけがある小さな部屋であった。寮の名前は「アイゲンマン」というホールで、院生以上の学生と外国からの研究者が入寮していた。
 部屋についてホッとしていると、ベッドにシーツがないことに気がついた。自分で用意しなければならないのであった。丁度私の部屋の向かいにテレコミュニケーション学科のアメリカ人の院生がいて、その彼が北谷先生から頼まれたと言って私を買いものに誘ってくれた。北谷先生は、私が日常品の買い物に出かけなければならないということを先刻ご存じであったわけだ。
 街のショッピングモールまで出かけなければならないので、車が必要であったが、彼は自分の車に私を乗せて走ってくれた。彼の案内で私は寝具を買いそろえることができたばかりでなく、テレコムの専攻だからテレビが必要だろうと、テレビを買うのまで付き合ってくれた。室内アンテナのテレビであったが、セッティングまでやってくれた。地元のケーブルテレビを見るためには、特別の設けられた学生談話室のラウンジまででかけなければならないということであった。私の英語も何とか通じているようで、生活ができる目途がたっていった。
 翌日から私はおもむろに行動を開始した。先ずテレコミュニケーション学科に出向き、学科長やスタッフに到着の挨拶をした。必要な科目の聴講許可をお願いしたら、学科長名で一通の書面を書いてくれた。「この書面の持参者に許可を与えてほしい」というもので、これでどの教室を聴講してもよいというお墨付きをもらったことになった。図書館はIDカードで自由に使うことができた。
 学科長は、居合わせた同僚やスタッフを紹介してくれるが、初対面の挨拶が実に気持ちよい。愛想がよいのであった。私は日本の学部事務室を想定していたが、少人数でこじんまりした部屋で事務がとられていた。後で分かったことだが、学生の履修届けなど、学生個人に関する諸手続きは、大学本部のというか、中央の学生管理部のような部署で一括して取り扱われていた。
 授業を傍聴することもさりながら、先ずはキャンパスの地理を頭に入れる必要があった。余りにも広すぎるのである。キャンパスの中をバスが走っているし、車も街の中と同じように走っている。建物から建物までの距離が長いし、移動が大変だと思わずにはおれなかった。
 私はいつも地図を片手に持って歩いていた。建物のイメージに慣れてくるまで、地図が手放せず、自分がどこにいるのかを確認しておく必要があった。学生や教員、スタッフと小道や廊下ですれ違うと、見知らぬ人同士であるが、皆がニコッとして「ハーイ!」と声をかけてくれたり、「ハブ・ア・ナイス・デー!」と言ってくれたりする。
 こうした出会いの挨拶は生活習慣なのであろう、終始変わることがなかった。見知らぬ人同士のこの初対面の印象のよさ、笑顔の応対はどこからくるものなのか、私は考えさせられた。アメリカは多人種・多民族の国で、お互いの文化的背景が違うので、以心伝心の文化の国ではない。それ故に初対面では相手のことがよく分かっていないから、先ずは緊張を避けるということが大事とされてきたのであろうか。そんな配慮が日常の習慣になったのかも知れないが、互いの文化的背景が違っていようと同じであろうと、笑顔の挨拶はとても気持ちがよいし、安心感のよすがとなる。時間の経った今でも、時々キャンパスで出くわした素晴らしい笑顔を思い出すことがある。

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