関西大学には、在外研究員制度があって、在職期間中に1年と半年の2回、海外で研究調査をする機会が与えられる。国内での給料は保障され、プラスして本人の旅費と海外滞在中の生活費が支給されるので、教員にとっては有り難い制度である。
1年間の在外研究は、留守中の授業に支障がないように備えをしておく必要があって、2年前に教授会の承認を得ておく必要があった。どこの大学で、どの教授のもとで、どんなテーマで研究するのかを決めなければならないのだが、一番重要なのは、研究を受け入れてくれる教授を決めることであった。受け入れ承認のオフィシァル・レターをもらって、やっと渡航の目途が立つことになる。
特定の大学を決めずに、世界の国々を漫遊して歩く計画も可能であって、そんな計画を立てた先生方もいたが、私は、1年間滞在先を決めずに漫遊して歩く自信はなかった。留学は初めての経験だし、まず食事や病気になった場合のことなどを考えると、滞在先を決める方が安全で収穫が大きいと考えた。
1983年(昭和58)は、我が国にテレビが誕生して30年を迎えた年であったが、その前後から、新しいメディアの登場が目立つようになり、「ニューメディア」という言葉が流行語にもなった。アメリカでは、既に1982年にAT&T(全米の通信を殆ど独占していた)が分割され、競争条件の平等化がはかられ、ケーブルテレビ(CATV)も1975年には、通信衛星とつながって多チャンネルの「ケーブルネットワーク」を実現していた。日本は14年遅れて1989年(平成元)になって実現した。
80年頃までの私のメディア研究は、専らテレビ研究であったが、東生駒のCATV実験の評価委員の経験も加わって、私は日本の先を行くアメリカのケーブルテレビや衛星放送を研究してみたいと思うようになった。
私は、大学の在外研究員制度を使って、85年3月に出発できるように準備をし始めた。
どの大学のどんな先生について研究するかを事前に決めておかなければならず、まずこれで頭を痛めた。受け入れてくれる教授の正式招待状が必要で、これがないとビザが発給されなかったのである。
ケーブルテレビを中心にアメリカのテレコミュニケーションを研究するのが目的だが、どこにどんな先生がいるのかを探さねばならなかった。今日のように便利のよいインターネットもなかったから、図書館で関係の著書やアメリカの大学要覧を検索したりして探していった。中西部にある大学は、放送や通信関係の学科が充実していることを知り、インディアナ大学に「テレコミュニケーション学科」があることが分かった。
直接電話してということになると、私の英会話能力では無理だろうと心配していたら、幸いなことにそこに日本人の先生がいたのである。これはラッキーだと喜び、その先生と連絡をとろうとしたら、またラッキーなことに、その先生は「日本新聞学会」(今は「日本マスコミュニケーション学会」)の会員であって、日本で学会発表をされたことがあり、私は顔を知っていたのである。北谷賢司博士であった。
私は先ず北谷先生に連絡をとって、私の留学目的や受け入れの可能性について手紙を書いた。可能性があるという返事をもらい、それから後は、北谷先生の指示に従って、私の英文の履歴書や業績書を送り、学科長の受け入れ許可の手紙を受け取ることができたのであった。
インディアナ大学にはテレコム専門の先生が何人もいて、私の留学先としては願ったり適ったりの大学であった。その上ジャーナリズム学部もあって、ジャーナリズム学部の専門図書館も備えていた。
心配なのは私の英会話力であった。学生時代から何のトレーニングも受けていなかったので、関西大学に職を転じてからは、英語を話せるようになっておかなければという気持ちぐらいはあったが、具体的には何の対策も立てていなかった。時間があれば、ラジオやテレビの英会話を聴くようにしていたが、それも気まぐれに聴く程度のものであったから効果の程はしれていた。
1977年(昭和52)に、私は名張市の桔梗が丘に住んでいたが、千里山キャンパスへの通勤時間のこともあって、大阪市の天王寺駅近くのマンションに引っ越しをした。近鉄沿線の名張の家はそのままにしての天王寺住まいであった。
丁度そのマンションの隣にYMCAがあって、英会話教室が開かれていた。私は、これなら通えると思って申し込んだ。クラス分けがあったが、ヒアリング・テストがよくなかった。出席したら、大学生が多く、学生に混じって授業を受けるという感じであった。
グループ別に英語劇をさせられたが、私はどうしてこんな学芸会のようなことをしなければならないのか、と思ったものである。このことを人に話すと、学生に混じってよくやるね、と言われたものだ。恥ずかしくないのかというわけであろう。そんな経験をしたのであったが、ちょっと真似事をしたからと言って、私の英会話力が向上したとはとても思えなかった。
85年(昭和60)の年が明け、アメリカ出発が迫ってくると、特にヒアリングが心配で、私は大学のLL教室に出向いて、ヒアリング向上のための教材テープをコピーさせてもらった。通勤電車の中や就寝前のベッドの中で何度もカセットテープを用意して、ヒアリング練習に努めたが、49才の私の頭脳は、顕著な変化を示してはくれなかった。