第34回 ニューメディア時代と「関西ニューメディア研究会」

 1980年(昭和55)前後の私は、「笑学の会」の推進に忙しくしていたが、私の本来の業務である大学での教育研究の仕事も大忙しであった。81年に教授に昇格するまで「放送学各論」という講義を持ち、昇格と同時に「マスコミュニケーション概論」という科目を担当した。学生たちは略して「マス概」と言っていた。
 「概論」は専攻の中心的科目で、大体はキャリアのあるベテラン教授が担当するのであったが、その教授の定年退職の後、誰が担当するかになり、教室会議において、「井上さんはどうですか」となって、私は他校で既に「マスコミュニケーション論」という科目を非常勤で担当していたこともあって、そんなに困難なことではないだろうと引き受けてしまった。
 放送一筋の研究のあり方もあったが、私の胸のうちには、放送だけのメディア論ではなく、各種のメディアを広く含めた「情報メディア論」を展開してみたいという気持ちがあって、「マス概」の担当は、結果的には良い選択となった。
 「マス概」担当となって、放送に加えて、新聞、出版、映画なども範囲にいれていくことになったが、80年頃から登場してきた「ニューメディア」と称せられる一群のメディアも研究対象に加えていくことになった。
 それまでの電気系メディアの中心はテレビであった。受像機のブラウン管に移るテレビを研究対象としておればよかったが、ブラウン管に映るのはテレビだけではなくなったのである。CATVやビデオ、レーザーディスクなどが登場し出して、私のメディア研究もそうした「ニューメディア」を包含していかざるを得なくなる。
 1980年代は、日本経済が猛烈に成長を遂げた時代であった。エズラ・ボーゲルの『ジャパンアズナンバーワン』(TBSブリタニカ)という本が出版されたのが1979年、戦後「欧米に追いつけ追い越せ」のスローガンで頑張ってきた日本が、まさに「ナンバーワン」になったのではないかと錯覚した時代であった。高度経済成長を背景に世界に先駆けてさまざまな実験、技術開発が進行した。
 情報通信の世界でも、さまざまな技術開発が進んだ。古くからあったCATVや70年代後半に登場した家庭用ビデオ(ベータマックスとVHS)が「ニューメディア」として注目を浴び出した。81年にレーザーディスク、82年にはCDが発売、84年には日本電信電話公社(現NTT)の「キャプテン・システム」(文字画像情報システム)のサービス開始、同年放送衛星の打ち上げ、その後も通信衛星や文字放送、ハイビジョンやパソコン通信などが控えていて、それらは「ニューメディア」と総称されていた。
 78年(昭和53)に通産省の「完全双方向映像システム」の実験がスタートした。近鉄沿線の東生駒の住宅地を舞台に、光ファイバーを設営しての世界で初めてのCATV実験であった。あの『第三の波』を書いたアルビン・トフラーも見学に訪れた施設である。この実験を評価する委員会(委員長 渡辺茂東京大学名誉教授)が組織され、私も委員として参加することになった。 
私は大学で「放送学各論」を担当して、専らテレビの研究を行ってきたが、ここにきてケーブルテレビも含めていくことになった。ブラウン管に映るものは、地上波テレビだけではなくなったわけである。
 東生駒のCATV実験は、モニター家庭の全世帯に光ファイバーを敷設して、既存のテレビ電波の再送信に加え、地域情報の映像や文字サービス、動画サービス、それに家庭からも情報発信ができるという「完全双方向テレビ」を実現するという画期的な実験であった。新興の住宅地では、見知らぬ人々が集まって地域社会を作るが、コミュニティとしてのまとまりを作っていく中心がない。地域の人々が接触し、交流する機会をもつことが重要ではないか。CATVによって地域情報が共有できて、スタジオを広場として活用できれば、コミュニティの形成に寄与できるのではないか。CATVはそんな期待を持たせてくれたのである。 
 ニューメディアの論議が高まっていく中で、82年(昭和57)7月に有志が、ニューメディアのための研究会を設立しようと集まった。私も設立発起人の一人であった。83年5月28日に「関西ニューメディア研究会(KNK)」が、会員約250人を擁して発足した。会長に滑川敏彦(当時、大阪大学工学部教授)、副会長に私(当時、関西大学社会学部教授)、他に16人の理事が選ばれてスタートを切った。大学、自治体、電気メーカー、通信、電鉄、流通、マスコミなどからの個人参加による自主的横断組織が生まれたのであった。
 84年(昭和59)7月には、「プラクティカルニューメディア」と題して、神戸国際会議場で講演とシンポジウムを行い、10月には国立京都国際会館で「ニューメディア・京都フォーラム」を行った。桑原武夫(当時、京都大学名誉教授)の「科学と人生」や坂井利之(当時、京都大学工学部教授)の「ニューメディア時代~機械のできること、人間のすべきこと」の講演、加藤秀俊(当時、放送大学教授)などによる「ニューメディア・ビジネスの可能性」のシンポジウムなどを開催した。
今振り返って思うのは、KNKが民間団体として果たした役割である。ニューメディアについて、数々の講演会、シンポジウム、フォーラムなどの研究活動は、ニューメディアが現実化していく過程において欠かせなかったと思われる。会員がそれぞれの組織でニューメディアの現実化でいそがしくなっていって、会の活動は休止状態になっていったが、個人参加のサロンは続いて、今日もなお会は存続している。
 私自身、KNKの研究活動から学ぶことが多かった。ニューメディアへの関心をそそられて私は85年に関西大学の在外研究員として、米国インディアナ大学テレコミュニケーション学科に客員研究員として留学することを決めたのであった。私にとっての初めての海外留学となる。

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