第32回 「笑学の会」の発足

 「漫才研究会」の第1回目を78年(昭和53)3月24日に大阪市北市民教養ルームで開催。読売テレビの有川寛が「中田ダイマル・ラケット」について報告を行った。この時に、ダイマル・ラケットのレコードや台本が全く残っていないことが判明し、両氏の漫才を聞く会を開こうということになった。
 3ヶ月後の6月27日の第3回目の会で、会の名を「笑学の会」として会則を制定し、私が代表世話役となり、事務局を私の自宅に置くことになった。この当時、私は、大阪市内の天王寺のマンションに住んでいて、例会の開催をマンション内の集会所で開いたこともあった。自宅を事務局として会報「笑学の会会報」を出し、第1号を見ると78年(昭和53)11月発行となっており、82年(昭和57)6月に第8号を出している。かなり不定期の発行であることが分かる。その後、私の奈良の西大寺への引っ越しにともない事務局も移転した。86年(昭和61)9月に第9号を発行。この時から会報の体裁を変え、名前も「笑学」と変えた。そして1990年(平成2)9月に第13号を発行して終わっている。
 「笑学の会」は、94年(平成6)7月に「日本笑い学会」に発展して、解消することになったが、16年の長きに渡って続いたのであった。私が海外留学で日本を留守にした年もあったり、会は不定期になりながらも、続けたことがよかったようである。第13号の「あとがき」に私はこんな風に書いている。「研究会として、あるいはまた情報交換のサロンとして、時にはおいしいものを食べたり花見をしたり、楽しみながらやってきたから長続きしてきたのではないでしょうか」。
 「笑学の会」の16年間を振り返って、思い出に残っている大きな出来事としてまず上げておきたいのは、会が発足した1978年(昭和53)の9月に実施した「中田ダイマル・ラケット爆笑三夜」の催しである。
 発端は、第1回の研究会で提起された課題というのが中田ダイマル・ラケットの漫才を聴く会を開こうということであった。早速会員の有川寛(当時、読売テレビ)と私がその実現に向けて動き出したのである。
 まず「なんば花月」の楽屋に中田ダイマルを訪ねて、企画の趣旨を話してお願いをした。
 1日に3題も演じることができるのか、そんな心配があったが、やってみようと決断をいただいた。私はその時に、台本は残っていないのかと尋ねたら、「ネタはすべて二人の頭の中にあって、お客さんの前で話さないと出てこない」と言われ、驚いたのを覚えている。私は、書いたものがあると思いこんでいたのだが、そうではなくて、二人の漫才は舞台の上で作られ、練られ練られて出来上がったものであることを知らされた。
 この頃の「なんば花月」は、ベテランのダイマル・ラケットの出演があっても、客席が閑散となる日があって、私はこのような状態が続いたら、ダイマル・ラケットのほんとうの漫才は、もう聴けなくなるかも知れないと思ったものである。是非その記録を残さねば、そういう仕事を「笑学の会」でやらなければと思った。演芸史の上から言っても十分に意義のある仕事と思えたのである。「笑学の会」主催、「笑の会」「上方芸能」「朝日文化工房」後援で「爆笑三夜」は実現した。
 9月13日から15日の3日間、1日3題で9題を演じてもらうことになったが、ゲスト出演や対談者の出演交渉、会場の設営、金銭上の問題などの世話は有川寛が中心となって取り仕切ってくれた。当日の映像は読売テレビがビデオ収録して番組化し、音声はラジオ大阪が録音して放送された。
 上演された作品は、1日目に「僕は迷医」「僕は小説家」「僕は幽霊」、2日目は「新憲法」「地球は回る目が回る」「君と僕の恋人」、3日目「家庭混戦記」「僕の農園」「恋の手ほどき」、それにアンコールとして「金色夜叉」が加わって、全部で10作品が演じられ、その全てを記録に残すことができた。
 公演は心斎橋パルコスタジオで行われ、200人位が入れば一杯という会場は、連日立ち見客も出る大入り満員の盛況となった。「漫才の低迷」が続く中で、ダイマル・ラケットの漫才を聴いて、観客は、あらためて漫才の面白さ、楽しさを満喫したに違いなかった。と同時に、演者のダイマル・ラケット自身が、あらためて自らの漫才に自信をもち、元気を回復してくれたことに大きな意味があった。
 「爆笑三夜」の成功は、「低迷する漫才界」に大きな刺激を与えることになったと思う。そして、幸いにも熱のこもった好演を記録にのこすことができたのである。(「爆笑三夜」の模様は、私の『まんざい』(世界思想社、1981)に書いているし、『日本笑い学会10年の歩み』(日本笑い学会発行、2004)にも詳しく書かれている)。
 私としては、折角記録ができた「ダイラケ漫才」をそのままにしておくのではなく、レコード化が出来ないかと考えた。落語のレコードは出ていても、漫才のレコードは売れないということで、どこのレコード会社も乗り気ではなかった。
 そこで私は、私のゼミ卒業生がCBSソニーの制作部に就職していたのを思い出して、その彼に問い合わせをしてみた。難しいという返事ではあったが、彼の努力の甲斐あって、担当者を紹介してもらうことができた。東京から見えた担当者と会って、ダイマル・ラケットの漫才の面白さ、レコード化することの意義を説明させてもらった。
 結果は上首尾でレコード化が決定したが、1枚のLPで4題しか収録できないということになった。4作品を選ぶことにして、私は「僕は幽霊」「家庭混戦記」「僕の農園」「地球は回る目が回る」を選んで作品解説も書いた。レコードの発売を記念して、1979年(昭和54)3月19日、心斎橋パルコで「ダイマル・ラケット”爆笑三夜・アンコール」公演を行った。私の好きな作品は「地球は回る目が回る」で、ボケとツッコミの論理が明白で、今聴いても面白く、漫才の古典と言ってよいのではないかと思っている。

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