第31回 史上初の「漫才ティーチイン」

 1977年(昭和52)前後、と言えば80年にやってくる「漫才ブーム」の前夜ということになるが、演芸場の客足は落ち、放送メディアでの演芸番組も減少し、あちこちで漫才の「低迷」「不振」が叫ばれていた。何とかしなければならないと75年(昭和50)に秋田実の「笑の会」がスタートし、その影響もあって漫才師たちの勉強会が広がっていった。「日本一亭土曜寄席」「KAプロ移動寄席」「角座漫才若手会」「ニュース寄席」などが開かれ、演者たちの努力が続いていった。
 77年8月24日、漫才史上初めての「漫才ティーチイン」が開かれた。「漫才はいま~終電車まで漫才を語ろう」と、漫才を聴くのではなくて、漫才を語るための会が開かれた。 
 主催は「笑の会」で、私が司会を仰せつかった。会場はアベノアポロビル6階の「YTVオーディアム」で、午後6時から10時45分までの4時間半、休憩なしで議論に没頭した。狭い会場には、市民をまじえて総勢100人ぐらいが詰めかけて満員となった。
 既に故人となられた方もおられるが、発言者として登場いただいた方々は、藤本義一、小関三平、新野新、狛林利男、木津川計、夢路いとし、喜味こいしの7氏であった。会場には、漫才師、漫才作家、マスコミ関係者、それに一般の漫才フアンが詰めかけた。何よりも驚いたのは、かくも多くの人が深夜にかけて長時間、漫才について議論しあったことであった。
 大阪には、漫才がこよなく好きだという人が大勢いて、漫才が不振をかこつようになると、淋しい気持ちにおそわれる。漫才をきいて笑いたいという、そんな気持ちが生活の底流にある。生活のなかの笑いと漫才は非常に近い関係にあるわけだ。従って漫才の不振は、単に漫才師と興行会社の問題ではなく、自分たちの生活の問題として受けとめてしまう。「漫才ティーチイン」といった試みも、大阪に笑いの文化を支える底力があればこそ、成立したと思われる。
 今思い出しても討論の模様を詳細に覚えているわけではないが、その時の模様を『上方芸能』(昭和53年1月号)の「演芸時評」(後に私の『まんざい』(世界思想社、1981)に収録)に書き留めているのでそれをもとに思い出してみる。
 ①「漫才の低迷」は、観客の減少、演芸場の廃館、コンビの解散、テレビの影響などがあるにしても、考えなければならないのは、漫才をめぐる環境の変化にある。とりわけテレビの影響が大きい。娯楽番組の多くは、お笑い芸人の専売ではなくなり、パーソナリティーや素人の参加でもたらされ「漫才的なもの」の多方面への拡散がある。そうした笑いをめぐる環境の変化を認識することは重要で、広範な市民層に受け入れられるためには、「漫才とは何か」という問いかけ、理論的検討が必要だという意見があった。
 ②その一方で、漫才は「雑草芸」だから自然に湧いてくるもので、大衆芸能のエネルギーを信じて、理屈を考えない方がよいとする意見が出された。新人の誕生というのは、後者の道から現れるのであろうし、キャリアーを積んでいくと前者の「漫才とは何か」を自らに問う姿勢が求められるということであろう。
 ③上方漫才には、数々の名人を輩出してきたそれなりの歴史があり、そこから学ぶべきものは多いはずである。名人は、その「時代の空気」に見合って笑いを創り出した達人で、その「笑いの方法」は学ぶに値する。テレビが悪いなどどすましていては何事も始まらないことは確かである。
 ④よく「漫才には古典がない」と言われるが、落語のように古典が持てないというのは、その通りである。漫才は演じる人と一体の芸で、弟子でも師匠の漫才をそのままに演じるということはできない。しかし、優れた漫才には、それを優れた作品たらしめている構造、笑いの方法があって、そういう作品は演者とともに古典として残ると考えられる。笑いの方法と言っても、さまざまな方法があって、達人たちは、コンビのキャラクターに見合って自らに適した方法を開発してきたわけである。
 といったようなことを話し合ったわけだが、漫才の行方を心配する人間には、何かをしなければという気持ちを起こさせた。私は司会を引き受けていた関係もあってか、漫才の行方に懸念をもち、何かをしなければという気持ちの高ぶりを覚えた。
 「漫才ティーチイン」が終わって間もなくの10月27日に秋田実は逝ってしまった。「低迷する漫才」と言われていたなかでの訃報で、いよいよ漫才の行方が心配されることとなった。そうした思いを持ったのは私だけでなく、漫才作家、新聞社、放送局の演芸担当者も同じであったと思う。私は読売テレビの仲間と話し合って、まず「漫才研究会」(仮称)を発足させることにした。78年(昭和53)2月2日に、その準備会を読売テレビの会議室でもち、10人が集まった。
 私は会の発足趣旨として次のようなことを書いた。「漫才に難しい理論など不必要という意見もあります。しかし、これからの漫才を考えていく上で、漫才芸についての理論的な考察が大切だと考えます」「昭和初期から飛躍的な発展をみてきた現代漫才も既に半世紀の歴史をもち、更にたどれば800年の歴史をもつと言います。漫才とは何なのか、その芸の特質は何なのか、その芸の構造とは、その笑いとは何なのか。さまざまな角度から、個々の演者の問題とともに具体的に漫才を取り上げ、漫才芸についての理論的な考察を積み上げていきたいと考えています」。
 第1回目の「漫才研究会」(仮称)は、78年(昭和53)3月24日に、大阪市北市民教養ルームで開き、中田ダイマル・ラケットの漫才をとりあげている。

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