第30回 MZ研進会・笑の会・上方演芸研進社mydo

 秋田実は1946年(昭和21)、敗戦の翌年に満州から引きあげて帰ってくる。大阪は大空襲を受けて焼け野原、演芸会社は解散、寄席も壊滅、漫才師もちりぢりばらばら、秋田も京都の妻の実家で一時を過ごすことになる。戦前の弟子たち、若い漫才師たちは途方に暮れるなか、秋田は彼らの相談相手になっていき、彼らを集めて「MZ研進会」というサークルを結成する。秋田はリーダーとして、自身も台本を書いて若手漫才の育成に励む。Aスケ・Bスケ、いとし・こいし、蝶々・雄二、ワカサ・ひろしなどが育っていった。
 2005年(平成17)は、名古屋で「愛知万博」が開かれたが、35年前の1970年(昭和45)には、大阪で万国博が開かれた。期間中約6400万人が大阪を訪れたので、大阪の繁華街である道頓堀や千日前も大勢の人々で賑わった。「角座」や「なんば花月」にも人が溢れた。ちょうどこの頃に、新しい世代の漫才師が育っていて、劇場の賑わいに連動してテレビ番組も増え、”漫才ブーム”が現出した。やすし・きよしを筆頭に、若井ぼん・はやと、正司敏江・玲児、コメディーNo1、レツゴー三匹、中田カウス・ボタンなどの新人が大活躍した。しかし、この漫才人気も長くは続かず、1975年(昭和50)頃になると、演芸場の客足が落ちて行き、漫才の下降が目立つようになった。
 神戸松竹座が、1976年(昭和51)に閉館、翌77年にはコマモダン寄席「トップホットシアター」も閉館してしまう。この年には、成長が期待された海原千里・万里の廃業、チグハグコンビ、船仁のるか・喜和そるかのコンビ解消などが続き、テレビの寄席番組もわずか読売テレビの「お笑いネットワーク」と朝日放送の「道頓堀アワー」の二本が残るだけとなった。演芸場では、「なんば花月」ですら2部の興行は空席が目立ち、吉本新喜劇が始まると客が帰っていくという状態で演芸場の退潮が目立った。
 漫才の低迷が続くなかで、秋田実が漫才の振興を目指して1975年(昭和50)に「笑の会」を結成し、読売テレビの協力を得て、若手漫才師と漫才作家の育成をはかるべく活動を始めだした。『放送演芸史』(井上宏編、世界思想社、1985)のなかで、山口洋司(当時、読売テレビ・広報部勤務)が、「笑の会」のことについて書いている。「次代の演芸界を担う新人を発掘していこうというのが、一つの狙いであった。この新人は演者だけではなく、漫才の作者をも含んでいた。秋田実氏の晩年の執念を込めた仕事であった」。確かに「笑の会」には、秋田の熱い想いが込められていたと思う。
 初期のメンバーには、海原はるか・かなた、森啓二・島田洋司、ザ・ぼんち、チグハグコンビらがいた。勉強会の会場には、阿倍野のアポロホールがよく使われていた。私にも応援できたらという思いがあってよく顔を出していた。
 公演が終わると、作家もまじえ全員が車座になって合評会を開き、善し悪しを話し合う。合評会には私も加わっていた。秋田はよく私に感想をと促し、私も促されるままに感想を述べ、時には辛口の批評を述べたこともあった。私にすれば、「漫才の父」とも言われた人の前で、漫才批評を語るのははばかられたが、合評会と割り切って、あれこれと批評をさせてもらった。私にすれば、師匠はどう批評するのかという関心があったが、何回かの合評会を共にして分かったことがあった。秋田がいつも「よく頑張った」「一生懸命やってよかった」「今日の出来ばえは良かった」というように、励ましの言葉で若い演者をねぎらっていたことである。私は叱るような辛口の批評を耳にしたことがなかった。
 弟子との年齢の差もあったであろうが、これは秋田の教育方針だと私は納得した。自分に才能があるのかないのか、成長できるかどうか分からない不安をもって立ち向かっている人間には、小さな技巧のあれこれよりも、励まして自信をつけさせ、高揚するエネルギーを引き出してやることが、先ずは大事なのであろうということであった。
主宰者の秋田実が1977年(昭和52)に他界、その後「村長」として藤本義一が受け継ぎ、メンバーにB&B、オール阪神・巨人、青芝金太・紋太なども加わって勉強会は熱気を帯びていった。1979年(昭和54)には東京公演を果たし「芸術祭優秀賞」を獲得、「笑の会」で育ったB&B、ザ・ぼんち、阪神・巨人などが、80年(昭和55)の”漫才ブーム”の中心的存在となっていった。秋田実が”漫才ブーム”を見ずに去ったのがとても残念に思われた。
 それから26年が経って、2006年(平成18)3月に「特定非営利活動法人上方演芸研進社mydo」が結成された。代表の理事長は、秋田実の三女八田千代さんがつとめる。目的には「上方の笑いの文化・楽しく健康な笑いに関する事業を府民に広く提供する事業を行い、広く笑いの交流の実践及びより多くの人たちが大阪の誇れる笑いの文化活動の増進と豊かな社会作りに寄与・貢献すること」を掲げている。大事なのは、そうした活動を実践する人材の育成である。八田理事長は「mydoでは笑いのエキスパートたる人材を揃え、しゃべくり漫才・新作落語・大阪喜劇の書ける作家の養成に着手してまいりたいと思っています。今流行のその場しのぎの底の浅い笑いではなく、品質のある健康な笑いを作りたいと考えています」と語る。
 私が思い出すのは、秋田実が試みてきた「MZ研進会」「笑の会」の歩みである。「mydo」はその精神を継承し、今の時代に見合ったNPO法人としてスタートすることになり、私も理事の一人として参加することになった。
 06年(平成18)10月24日に、精華小劇場で記者会見を行い、お披露目公演「まいど寄席」として、喜味こいし・喜味家たまご両理事による「ほのぼのトーク」が演じられた。2回目は、同年11月18日(土)、19日(日)の両日、ゑびす座にて「喜味こいしとその仲間による喜劇・私はおまわりさん」の公演を行った。新しい時代の演芸状況のなかで、新しいチャレンジが始まったわけである。

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