室内装飾業に転じた父親は、戦時下においては、注文がすこぶる増えて、よく儲けたようである。空襲に備えて、明かりが外に洩れないように、どんな建物も窓にカーテンを必要とした。軍需に関する工場・事務所は率先してカーテンを用意した。私の父親はその一端を担って働き、収入を得ていた。住吉公園に大邸宅を購入できたのも、お金があったからだと思う。
元々趣味人でもあった父親は、靫時代では、仕舞の師匠を家にきてもらって稽古に励んでいた。そんなときに、私と姉が同時に稽古をつけさせられるのであった。謡曲の一節を諳んじるように言われたりもした。客人が来ると、それを披露させるのである。成人してから思ったことは、幼いときの稽古事が、意外や芽を吹き出すことがあるということであった。私は大学時代に、能学部に入って謡をやりだしたが、それも子ども時代の稽古事がよみがえってのことと思われた。
家には初代桂春団治のレコードがあって普段の日でもそれを楽しんでいたし、私は父親に寄席に連れてもらった記憶がある。どの寄席だったか思い出せない。店と家とはくっついていたから、店では事務や職人の店員が、いつも冗談を言い合ってよく笑っていた。家には、いつも笑いの空気が流れていて、私自身も店の人によく遊んでもらった。
1944年(昭和19)に入ると1月から疎開が始まり出す。学童疎開はまず縁故疎開から始まりだし、縁故先がなかったり家庭の事情で疎開が困難な児童のため、集団疎開が行われた。私の父親は、縁故疎開を選び、父親の弟の妻の実家の茶谷家を頼ることになった。滋賀県野洲郡中洲村の大字新庄というところである。私だけが、まずそこに預けられた。昭和19年の早々のことで、中洲村には雪が積もっていたのを覚えている。小学校2年生の冬のことであった。私にしてみれば、遠縁とは言え、会ったこともない見ず知らずの人のところに預けられたわけである。
出発の前夜に家族全員が集まって、何か記念の品をもらった記憶がある。革の財布であったようだが、はっきりと覚えてはいない。親にとっても子にとってもつらい出来事であったわけであるが、つらいことは忘れるということか、私には詳しい記憶が甦ってこない。
1944年(昭和19)11月には、B29による初の東京空襲があり、1945年の1月早々には、大阪市も初めての空襲を受けた。度々の空襲を予測して、父親は、市内の靫にあった荷物を住吉の家に集めて、そこから疎開先の中洲村に送る計画を立てていた。
3月13日に「大阪大空襲」があって、市内は一面が焼土と化し、私の靫の家は全焼した。その大阪大空襲を、中洲村の疎開先から、私は見ていた。大阪方面に変な明るさと真っ黒な雲が立ちこめているのを見て、大人たちが「大阪が燃えている」と語っていた。
その後も、大阪は波状的に何度も空襲に襲われ、ついに住吉公園にあった家にも焼夷弾が落ちて家は全焼、引っ越し間際の荷物も全部焼けてしまった。物は焼けたが家族の命には別状はなかった。家族は住む家なく、中洲村の縁故を辿って疎開することになった。多少の着物や反物、宝石、骨董品など僅かな品は持ち出せたのか、それらが疎開先での生活の糧となってくれたのであった。
家族は茶谷家の親戚の家を紹介され、その離れ屋敷に一時的に落ち着いた。喜んだのは私である。会えなかった家族と会える、母親と一緒に住めるということで喜びいさんで、母親の元に駆けつけた。しかし、狭くて寝るところがないから、もうしばらく辛抱しろと母親に言うて聞かされる。道ばたに沿って流れる小川に沿ってとぼとぼと引き返すと、小川に小魚が固まって泳いでいる。魚でも家族が一緒なのに、そんな思いで見つめていたのであろう、何故かその小川のシーンを鮮明に覚えているのである。やがて、家族は全員が住める屋敷を借りて、引っ越ししていったが、その時には私も引き取られていった。
茶谷家には子どもがいなかったので、おばあちゃんがよく面倒をみてくれ、若夫婦にも可愛がってもらった。預けられた当座は、よく泣いていたという。大阪の親に手紙を書きなさいということで、書かされたわけだが、それがなかなか書けなくて、泣きながら書いたことを思い出す。
茶谷家では、客人を預かるという姿勢ではなく、田舎の子どもとして育てるということであった。田んぼの草取りから稲刈り、肥やり、ワラ仕事、何でもやらされた。一番嫌だったのは、田んぼでの仕事で、蛭が足にくっつくことであった。蚊に噛まれて掻いた後などにすぐくっつくのである。
生活の激変振りもさりながら、言葉の違いもあり、友だちづくりが大変で、おばあちゃんや若夫婦が、近所のガキ大将に、仲間に入れて遊んでやってくれるように、よく頼んでいたのを思い出す。いじめもあったと思うが、つらい思い出は何故か覚えていない。
自分から興味をもったのは、小川や池で小魚を釣ることであった。近くの野洲川で泳ぐことを覚えたのも3年生の時であった。1944年(昭和19)の夏のことであったが、私が河で泳いで流され溺れかかるという事件が起こった。上級生達と一緒だったので難を逃れたのだが、これが父親の耳に入って、頭をどつかれて厳しいお説教をくらった覚えがある。
1945年(昭和20)の4月に4年生となって、私はすっかり田舎の子どもとして成長し、友だちも出来て愉快に田舎生活を楽しんでいた。後に大阪に戻って、都市生活が始まるが、この時代に過ごした田舎生活が、私に「緑のある生活」を強く印象づけたように思われる。