第29回 「秋田実」のこと

 テレビ局から大学に転職してからも、私は自分の好きな寄席めぐりを止めることはなかった。時間のゆとりができると、「なんば花月」や「うめだ花月」「角座」などによく顔を出していた。読売テレビの「上方お笑い大賞」事務局の一員でもあったので、私は舞台を見ながら感想をメモにしていた。演者の印象を綴りながら私は漫才芸そのものに興味を持つようになった。観客として、笑って楽しむだけではなく、どこが面白いのか、何故笑わせるのかなどと、考えるのが楽しくなっていった。
 上方漫才を語るのに秋田実(1905-1977)の名を忘れることはできない。秋田実は、「上方お笑い大賞」の審査委員であったから、審査会で身近に話を聞く機会があったし、自宅を訪ねる機会もあった。1975年の春であったと思うが、自宅に伺った時に出版されたばかりの『私は漫才作者』(文芸春秋、1975)という本をいただいた。
 この本から教えられたことは多かった。まず漫才の定義である。「漫才の笑いは、言葉と言い廻しによる面白さが中心で、二人の人間の立ち話である。雑談と言ってもいいし、無駄話でも世間話でもかまわない」「漫才の二人での世間話は、平凡な庶民の生活の平凡な暮しの打ち明け話なのである」「平凡な生活は誰しもが、つい詰まらない詰まらないとこぼす生活であるが、毀されたら大変である。漫才的には平凡な暮らしが一番しあわせで、その楽しさを言葉と言い廻しの新味と妙味とで言い表わそうとするのが、漫才の笑いである」と書かれている。
 秋田実は、戦前の戦時色が強まっていく時代において、「平凡な庶民の生活」が毀されていくことを体験しながら「笑い」を書いていた人で、笑いが抑圧され笑っているどころではないという時代にあっても、笑いが大事なのだと考えていた人であった。
1938年(昭和13)に国家総動員法が公布されていくなかで、さまざまな物資や価格の統制が始まりだし、戦時色が一般家庭にも浸透していった時代のなかで、秋田は「ニュース漫才」を書いていた。
 例えば、「節約が大事」のスローガンに対しては、腕時計は家を出た時に動かし、置時計や柱時計は止めて出掛けるようにする。「どんな小さなところにも、ちゃんと気を配らねばいけません」と落とす。「金の供出」では、「雄弁は銀なり、沈黙は金なり」と言うから、僕は国策に合わせて金を売った。沈黙の金を売ったから「もう喋ってるより、仕様がないやないか」とか。1939年(昭和14)には『週刊朝日』に「風俗時評」を書き、時局の話を笑いに転化している。例えば、国家非常時の折柄、健康の問題は一日も疎かに出来ない、長生きするにはご飯をよく噛んで食べること、ということを捉えて、「噛めば(亀は)万年や言うて」「よく噛むことは、国民の義務やがな」「滅私(飯)奉公と言うのはここの理屈や」「早速、僕は実行する。家族の者にも、よく理屈を呑み込ませるわ」「呑み込ませたら不可んのや。噛む話や。よく噛んで含めんかいな」と言った風に。
事態は深刻でも、深刻に巻き込まれてますます暗くなっていくよりは、少しでも笑って明るく生きた方がよいではないか。笑いを無くし、こちこちになって余裕をなくすと、もうそれ自体危険なことではなかいか、そんな思いが秋田実にはあったと思われる。
 戦後の漫才は、秋田実を中心に復興し、門下から夢路いとし・喜味こいし、海原お浜・小浜など数々の優れた漫才師が輩出した。上方漫才界にあって、「漫才の父」とも言われる存在であったが、1977年(昭和52)10月、72才の生涯を終えた。75年(昭和50)に漫才の勉強会である「笑の会」を立ち上げ、若手の育成に励んでおられたが、80年(昭和55)の漫才ブームを見ることなく亡くなられたのが残念であった。
 83年(昭和58)に、私は創元社から秋田実著・井上宏編で『ユーモア交渉術』という本を出している。三女の八田千代さんに手伝ってもらってまとまった本であった。その本の「あとがき」の一部をここに抜粋しておきたい。
 「氏がライフワークとして取り組まれたのは『ユーモア辞典』(文春文庫)全10巻を完成することであったという。長年に渡って書き集められた資料を整理し、1、2巻の原稿をやっとまとめられた時点で病におかされ、ついに本が出版されるのを見とどけることができないまま逝ってしまわれたのであった。書き急がれたけれども間に合わなかったのである。」(注:昭和53年1月から10月にかけて、3巻までが出版された)。
 「氏の亡くなられた翌53年の春に、私は有志に呼びかけて、「笑学の会」という笑いの研究会を発足させた。上方のお笑い界にあっての支柱をなくした後にあって、何かをしなければという想いが会結成の動機になっていたことは確かである。仲間が寄り集まっては、先生は何故もっと多くのことを書き残しておいて下さらなかったのか、残された書類や資料の整理の仕事があるのではないか、といったことを話し合っていた。56年の春、私たちは房江夫人と長男の林照明氏を自宅に訪ね、資料の整理を申し出た」。
 「生前の秋田氏は、私の目には”漫才の父”としての漫才に関わった人としての印象が強かったが、原稿を読み進むうちに、氏がまるで教育者あるいは哲学者のように見えてくるのであった。人間は笑う動物であり、笑う能力を生まれながらにして備えており、笑いは極めて人間的な営みなのである。この笑いを基礎にして人間のあり方を、人間関係のあり方を、ひいては社会のあり方を考えてみることが可能である。秋田氏は、そうした考えに立ち、笑いによる人間の教育、人間の幸せのあり方を考えようとされた人ではなかったか。けんかをして不愉快なおもいをするのならば、笑いによってちょっとでも不愉快を愉快に転じようではないか。どんな苦境に立っても、しんどい気持で耐えているよりも、はやく楽になった方が人間は幸せではないか。そういう氏の声が聞こえてくるような気がするのである。こうした考え方を知るにつけ、氏はまさに大阪の人であったのだということがよくわかる。大阪に生まれ育って、暮らされた氏は、大阪を愛され、大阪を語ってあきない人であったということもわかるのである。」
 氏の資料整理を手伝ったことを契機に、氏の生涯を追って、私は「秋田実の『笑いの思想』」という論文を書いて『現代風俗’84』(第8号、現代風俗研究会、1984年)に発表した。後に出版した『大阪の笑い』(関西大学出版部、1992)のなかに収めている。

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