大阪では「お笑い」を振興するために、放送局が漫才や落語のコンテストや表彰の制度を設けている。一番歴史の古いのはラジオ大阪の「上方漫才大賞」で、1966年(昭和41)に設けられ(現在は関西テレビとの共催)、2007年4月で42回目を迎える。
次いでは、NHKの「上方漫才コンテスト」が1971年(昭和46)に始まり、その翌年の1972年(昭和47)に、読売テレビの「上方お笑い大賞」が誕生する。漫才ブームの1980年(昭和55)には、朝日放送の「ABC漫才・落語新人コンクール」(後に「ABCお笑い新人グランプリ」に改称)が加わった。
東京では、NHKが東京と大阪を含めた「NHK新人演芸大賞」を催しているが、これも歴史を辿れば、1956年(昭和31)の「NHK新人漫才コンクール」に端を発して古く、1972年には「NHK落語コンクール」を開始、86年に両者のコンクールが一緒になり、89年には部門別が廃止され、91年に「NHK新人演芸大賞」に統一される。ところが漫才と落語を同じ枠の中で評価を下すのは難しく、再び94年から部門別に分けられ現在に至るというコースを辿っている。
大阪の放送局は演芸のコンクールに積極的である。その理由としては、先ずは笑いの文化の歴史が古く、お笑い愛好者が多いということが挙げられるよう。だが、それだけではなくて、大阪では演芸人の育成が同時にまた放送番組のタレント供給に大きく寄与しているという事情がある。
1980年(昭和55)の漫才ブームを受けて、誰でもが参加できる「今宮こどもえびす新人漫才コンクール」(今宮戎神社主催)が始まった。神社の境内で競い合うのである。毎年行われて盛んである。元気のよい「漫才の市」が立つと言ってもよい。大阪には気軽に漫才を演じてしまう子どもや若者が大勢いるということが分かる。こんな街は大阪をおいて他にないのではないか。
2001年(平成13)に賞金1千万円を掲げた「M1グランプリ」が登場した意義は大きい。地域やアマ、プロ問わずあらゆる人に門戸を開放してのコンテストである。勝ち抜きでせり上がってきて、年末のテレビ放映の決勝戦に臨むという仕組みである。第1回受賞者は、中川家、2回がますだ・おかだ、3回がフットボールアワー、4回がアンタッチャブル、5回がブラックマヨネーズ、2006年の6回目がチュートリアルと、次々に有望な新人を送り出している。
さて、読売テレビが1972年(昭和47)に設けた「上方お笑い大賞」であるが、2006年に大幅な手直しを行われた。選出の仕方、審査委員、審査の方法が大幅に変わった。実は「上方お笑い大賞」については、私はその誕生から2006年に審査委員を降りるまでかかわってきたのである。
これの企画段階の当時、私は編成部にいたが、宣伝部と制作部の仲間とともに、大阪のお笑いを盛り立てようと、「上方お笑い大賞」の企画案を練ったのである。宣伝部が中心となって企画案がまとめられ、全社的承認を受けてスタートすることになった。
手元に1972年(昭和47)1月25日発行の広報資料が残っていた。読み直すと企画者の意図が熱っぽく書かれている。それを次に紹介しておこう。まず「地域社会との連帯を深め地域社会に貢献すること」をうたい、「永年にわたって大阪の庶民がささえ続けてきた上方のお笑い文化」に積極的に取り組んで、「上方のお笑い芸の一層の発展、育成」に取り組むと宣言している。審査委員は、秋田実、富士正晴、田辺聖子、小松左京の4氏に依頼。賞として「大賞」「金賞」「銀賞」「功労賞」の4賞が設けられた。そして演者に関する情報収集を担当する事務局が、宣伝部事業課に設置され、私は編成部にいながらこの事務局に参画していた。
一回きりのコンテストで優劣を競う審査であれば、その場に立ち会ってすむが、年間に渡る業績に対しての評価は、情報収集が大事となる。事務局は手分けをして寄席を見て回り、情報収集に努めた。私も、事務局の一人として演芸場や独演会などを見てまわった。
審査会において事務局スタッフは、同席して収集した情報の提供を行った。審査に当たる作家たちの談論風発を聞いているのは実に楽しかった。彼らの上方の落語や漫才についての精通ぶりに驚嘆したのを覚えている。
第1回の大賞には笑福亭松鶴と桂米朝が、金賞にはコメディーNo.1、銀賞に海原千里・万里、功労賞に櫻川末子が輝いた。大賞該当者は一人が想定されていたが、松鶴と米朝の二人が選ばれることになった。どちらかに決めなければならないとしてもそんなことはできないという議論になって、二人に決まった。
私は読売テレビを退社し、関西大学社会学部に移ってからも、「上方お笑い大賞」の事務局を手伝っていた。途中で審査委員の交代があって、1975年(昭和50)の第4回目には秋田実が残り、他の3人が多田道太郎、藤本義一、富岡多恵子にかわった。その後、三田純市、寿岳章子などの入れ替わりがあったが、1980年(昭和55)の第9回目に私が審査委員入りとなった。その時の審査委員は、藤本義一、三田純市、寿岳章子、井上宏という顔ぶれ。後に木津川計、難波利三、織田正吉などが加わり、1995年(平成7)の第24回からは、藤本義一、難波利三、織田正吉、木津川計、井上宏の5人となり、その後99年(平成11)に木津川計が降りて残る4人で、2005年(平成17)まで担当した。
新人賞のようにコンクール形式で、その場の出来具合で判断すればよいものは、そんなに負担を感じなくて済んだが、大賞などの年間に渡る成果の評価は、日頃から自分の目で見ておく必要があった。選考会は、年に2~3回開催し、評価を積み重ねて最終選考となったのであるが、突出した演者が出ない限り、漫才、落語、喜劇などを同じ土俵の上で評価するというのは、難しい仕事ではあった。
数えてみると、私は25年の長きに渡って審査委員をつとめたわけだ。委員をしていたお蔭で、演芸を見る機会に恵まれたのは幸せであったが、審査会を振り返ると、甲論乙駁いつも頭をかかえた審査会であったと思う。