1月の正月休みも終わると新学期である。この頃になると、定年退職を控えた教授たちが「最終講義」を迎える。しかし、退職後、非常勤講師として同じ講義を続ける先生もいるから、文字通り「最終」とは言えないが、多くの先生方は、この講義が大学での「最終講義」となる。私の場合は、退職後も大学院へは非常勤講師として出講し、4年間続けてきて、2007年1月15日に、その大学院での講義も終わった。
大学院で担当していた「情報メディア論」が終わったのである。その講義名だが、振り返ると、メディア研究であることには変わりはなかったが、社会学部で始めだした「放送学各論」、それが発展して「マスコミュニケーション概論」。そして総合情報学部に移籍してからは、「電子メディア論」「コミュニケーション論」「社会学」を受け持ち、後に「電子メディア論」を「情報メディア論」と改称し、「コミュニケーション論」は手放して、学部退職の時には「情報メディア論」と「社会学」を担当していた。主たる科目は「情報メディア論」で、大学院の科目も「情報メディア論」としていた。
講義題目は同じでも、学部と大学院では内容を分けていた。学部では現状を重視しながら、大学院では歴史を重視した「現実世界とメディア世界の間」の問題を追求していた。
私にすれば、テレビ局から転じてから34年の長きに渡って話し続けてきたわけである。それがひっそりと終わったのである。「やっと終わった」という解放感もあり、「無事に過ごせた」というホッとした安堵の思いもあった。
その日は、天六学舎で授業を済ませたので、我が家に到着したのは午後9時半頃であった。待っていてくれた妻と食事をしながら「これで終わったよ」とつぶやくと、「長い間、ご苦労さんでした」と妻の一言。顔を見合わせて「やっと終わったね」となぜか笑い合った。一瞬の笑いで全てが通じ合った感じである。
思い出すのは、学部の時の「最終講義」である。華やかであらたまった雰囲気があった。学生が200人位はいたであろう。その他に同僚、卒業生、友人、家族など、日頃見なれない顔ぶれを前にしての講義で、カメラのフラッシュがたかれ、最後にはお別れの花束が贈呈されるというセレモニー的講義であった。
学部での「最終講義」は、2003年(平成15)1月14日(火)の4限目(14時40分~16時10分)の「情報メディア論」が「最終講義」となった。私はこの他に「社会学」の講義も担当していて、いずれにも「最終」が訪れるのであるが、「最終講義」は一つしか出来ないことになっていて、私は「情報メディア論」を「最終講義」とした。
「社会学」の方は「最終回」ということにして、いつもの学生が対象であったが、「笑いの社会学」で締めくくった。90分を全部使って「笑い」の講義をしたのは、これが最初で最後となった。
さて「最終講義」はどんな内容にするか。私がまず思い出したのは、私の恩師臼井二尚先生(京都大学)の最終講義であった。平常の講義の最後を締めくくる専門的講義であった。それでもよいのかも知れないが、私はちょっと工夫しなければと思った。というのは、「最終講義」というのは広く学内外に広報され、卒業生や一般の市民も聴講できるという講義なのである。人によっては、これまでの教職歴や学園生活を振り返っての話をする人もいるが、私は、普段の授業の最終回であると同時に「最終講義」を聞いていただく方々にも、理解ができる一定のまとまりのある講義にしたいと考えた。題は『現代コミュニケーション・ライフ考~「現実世界」と「メディア世界」のはざまで~』とした。
当日は、普段の受講生約200人に加えて、学部と大学院のゼミ卒業生、大学の同僚、私の友人、親族など外部からの参加者も多く見えていた。その夜に卒業生による「退職記念パーティ」が予定されていたので、卒業生の顔が多く見られた。火曜日の昼であるから勤めのある人は、休暇をとって出席してくれていたに違いない。いつもとは違った顔ぶれに、私の気持ちもやや高まっていたようである。
私は家内には、「最終講義」のこと、夜のパーティのことを知らせてはいたが、息子夫婦や孫たちがどうするのか確認はしていなかった。私が講義に向かうために校庭に出ると、家族の全員が来ていることに気がついた。長男と次男の夫婦、それに小学1年生と幼稚園の男の孫二人も来ていたのである。息子たちは会社を休み、孫たちは学校と幼稚園を休んでの参加であった。
よく来てくれたと思いつつ、私は演壇に向かって講義の準備をし始めた。すると、教室の後ろの方から、小学1年の孫が演壇の私のところにつかつかと寄ってきたのである。孫からすれば、大学に来たのは初めてであり、大教室に驚いていたと思うのだが、日頃見慣れているおじいちゃんが、どうして演壇の前に立っているのか、不思議なものを見る思いがしたのではないか。「何をしているの?」と不思議そうに尋ねたので、「これからおじいちゃんがお話をするから、後ろでおとなしく聞いててね」と諭すと、後ろにいる親のところにおとなしく帰っていった。
孫が私の「最終講義」に顔を見せてくれるとは思っていなかったので、急に胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。1年生と幼稚園児ではあるが、「最終講義」の場面が記憶として残り、大きくなったときに、演壇の私の姿を思い出してくれるのではないか、そうした想いがまた私の気持ちを高揚させたようであった。
講義が終わると、在校生の井上ゼミ代表が、花束を贈呈してくれ、皆の拍手に見送られて教室を出た。教員生活で1度しかない行事である。教室の外では、卒業生や友人、家族との記念撮影が行なわれた。30年の教師生活の最後の講義を終え、「これで終わったのだ!」と自分に言いきかせた。
夜の卒業生によるパーティは、家内同伴で招待され、梅田のホテル・グランビアで行われた。ゼミ卒業生70名、遠路をかけつけてきてくれた人もあった。卒業生からの希望もあって、卒業生諸君にはまとめて話す機会のなかった「笑い学」についての記念講演を行った。その後、盛大なパーティで私の退職を祝い30年の労を労ってくれた。