第25回 専任講師に就任して

 私はテレビ局を辞して1973年4月1日から大学教員として働くことになった。すぐに1泊の学部教員親睦旅行というのがあって、見知らぬ先生方との出会いがあった。5日に学長から専任講師辞令の交付を受け、9日入学式、10日新入生ガイダンス、11日教授会、そして12日から新学期が始まった。同時に私の講義も始まった。
 非常勤講師として教壇に立った経験はあったが、大学の専任スタッフとして、さまざまな行事に立ち会うのは初めてで、何もかもが新しく見えた。まさに緊張に満ちた新入生の気分であった。
 私の専門は「放送学」ということで、「放送学各論」という講義を1部と2部(夜間部)で担当した。他に英書(原書)講読の2クラス、そして3年次から始まるゼミがあった。
ゼミは事前に募集しておかなければならず、私の名前は伏せて募集があったのだが、25人の応募があった。初めてのゼミであったので、どう運営すべきか、私は自分が大学で経験した方法をそのまま踏襲することにした。
 ゼミのテーマである「放送学研究」の枠の中で、各人が研究テーマを立てて、ゼミの時間に順次発表を行って、3年次の終わりに30枚(1枚400字)のレポートを書き、卒業レポートは50枚以上ということにした。ゼミテーマは、ニューメディアが加わっていくことによって、枠は拡大していったが、発表の仕方やレポートの枚数については、私が退職するまで一貫して変わらなかった。
 この他に私は関大就任前に、同志社大学文学部の先生から「マスコミュニケーション調査法」という講義を頼まれていて、幅広い勉強を心がけようという気持ちもあり、1年間だけ受け持つことを約束していた。
 「放送学各論」という講義は、私が放送現場で体験して思考を重ねてきた「編成・制作論」を内容とするものであったが、「マスコミュニケーション調査法」というのは、これまでのマスコミュニケーション研究が蓄積してきた「調査研究」を紹介するというもので、私にとっては新しい領域の取り込みであった。20世紀に入って、アメリカで始まった映画や新聞、ラジオなどの「マスメディアの影響研究」をレビューすることであった。このときの講義は、教えるというよりも、自分の勉強という気持ちが強かった。
 今日でも「メディアの影響と効果」、とりわけ「テレビの影響」や「テレビゲームの影響」については議論が尽きないが、影響の問題は、19世紀の後半に大衆新聞が普及し始めたときから論じられてきた。20世紀の初めに映画が大衆に普及し始めたときは、「映画が青少年を犯罪に駆り立てている」という批判が起こり、「映画の影響」が研究者の主要な関心となった。大戦中には、マスメディアを通じた政治的キャンペーンやプロパガンダが国民にどんな効果を与えるかの研究もなされた。テレビが普及し出した頃には「テレビ悪玉論」が主張され、「テレビの子どもに与える影響」が主要な関心事となった。 
 新しいメディアが普及し始めると、必ず人々の生活や仕事の仕方、国民の意識のありように影響が現れる。良い影響と同時に悪い影響、悪用も生じる。今日で言えば、インターネットとケイタイの問題ということになろうか。メディアの歴史をひもとくと、私たちの生活の仕方が見え、社会の変遷が見えてくる。現代に近づけば近づくほど、メディアの種類が多くなり、人々の生活のメディア依存が強くなってくることが分かる。
 このときの勉強が、全く予期しないことであったが、後にマスメディア全般を取り上げる「マスコミュニケーション概論」という科目を担当することになって、大いに役に立った。後に定年退職する先生が出て、1981年(昭和56)に担当科目の一部編成替えが行われ、私が「マスコミュニケーション概論」を持つことになったのである。丁度私が教授に昇格した年であった。
 当時の社会学部には、「映画学概論」(後に「映像文化論」と変更)という科目があった。非常勤講師の担当であったが、突然出講できなり、他に担当者を捜すことになって、私が打診された。映画は好きだし、面白そうだなと気持ちが動く。専任講師としての義務だけを引き受けておればよいものを、「やってみるか」と引き受けてしまったのである。これも偶然で私の予期しないことであった。映画論の勉強をすることになったのである。
 忙しさが増したのは当然である。事前の勉強が欠かせない。好きな映画の評論をやっておれば済むという問題ではなく、「映画とは何か」について話さなければならないわけである。理論的なテキストが必要であった。そのとき選んだ本が、エドガール・モランの『映画~想像のなかの人間』(杉山光信訳、みすす書房、1971)であった。
 モランが社会学者ということもあって、読みやすいのではないかと選んだのであったが、中味はそれほど簡単というわけではなく、咀嚼するのが大変であった。映像を考えるに当たっての基礎を考えるのに良いテキストであった。このときは予期していなかったが、この『映画』との出会いが、その後の私の映像論に大きく影響することになる。
 モランは映画を「感情における融即」の論理で説明していたが、映像については、先ず写真を論じ、そして映画論を展開していた。テレビについては全く触れていなかった。私は、モランの映画論をテレビにつないで論じることができるように思え、実際にそのようにして私の「テレビ映像論」を作っていった。私が映画にも関心を持っているということで、ゼミに映画好きの学生も集まるようになった。
 73年は超多忙の年であったと言える。大学の外からの仕事も多く舞い込んだ。「日本新聞学会」(現在は「日本マスコミュニケーション学会」)での学会発表があったし、『月刊民放』の連載原稿の消化、新聞社からのコラム執筆などが相次いだ。私は一つも断ることなく引き受けていった。
 大学に移って給料が下がったということもあって、原稿料が入ってくる仕事はありがたかった。新聞社などの原稿は、当時は大体書留で送られてきた。現金が底をつきかけた頃に、不思議と「書留でーす」と郵便が届いて、家内は助かったという。
 4月から1年間、隔週で毎日新聞のテレビ批評欄「波」に署名入り原稿を書いた。従ってテレビもよく見ていた。第1回目は、その年の3月で終わった「木枯し紋次郎」を取り上げている。

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