第24回 会社を辞めるとき

 会社勤めをしていると、一度や二度は必ず辞めたいと思うときがあるのではないか。定年までそんな思いをしたことがないという人はいないのではないかと思う。自分の希望する会社に就職できた人でも、与えられる仕事や周りの人間関係によって左右され、こんなはずではなかったとすぐさま転職してしまう人もいる。しかしまた、希望の会社ではなくても、辛抱するうちに仕事も面白くなり、良い人間関係にも恵まれて、居着いてしまうという人もある。
 私のゼミ卒業生のOB/OG会が毎年1回開かれるが、そのときは各人の近況報告をしてもらうことにしている。ある年のことだが、転職の報告ばかりが続いて驚いたことがある。私の若かった頃は、転職は簡単ではなかったし、かなりの覚悟がいったものである
 私は、学生から就職の相談を受けたとき、いつもこんなことを言っていた。社会で仕事をするということには、自分の意思だけでは決まらない偶然がつきまとう。自分が適性と思っていた仕事も他者から見れば不向きであったりするし、場や資格が与えられて可能性が開花するという場合もあるし、さまざまな人間との出会いでチャンスに恵まれるということも起こる。就職には、方向性をきめなければならないが、何がなんでもこの会社、この仕事と思いつめないようにした方がよいと言ってきた。就職活動は自分を相手に売りつける活動であるが、相手がある活動だということをつい忘れてしまうところがあるようだ。そんなとき、方向転換をはかるのがとても難しくなる。
こうした考え方は自らの経験に負うところが大きいようだ。私自身、テレビ局を途中で辞めて大学にかわったが、これも偶然が然らしめたと言うしかない。在職中にテレビに関する論文を書いていて、大学で研究することができればよいがという幽かな希望はあったにしても、正規の大学教員になれるとは思ってもいなかったのである。
 1972年(昭和47)の夏頃だったと思う。人事部からの職場アンケートがあって、仕事に対する不満や意見、配置転換の希望などを訊かれたのであった。私は、そのとき編成部で「番組考査」の仕事をしていたが、番組を作る側にまわってみたいものだと思っていた。審査する側から作る側にまわりたかったのである。従って、直ちに制作部に変わりたいと回答したのであった。
すぐさま人事部から呼び出され、配置転換の意思の確認があった。「直ちにかわりたい」と書いたものだから、人事部がびっくりしたのかもしれない。暫く経って、今度は制作局長から呼び出しを受け、ほんとうに制作をしたいのかと打診を受けた。新入同様に一からやらなければならないが、それでもできるかという念押しであった。もちろん私はやりますときっぱりと答え、強く配置転換を希望した。
 そうしたやりとりがあって秋に入り、関西大学の社会学部から、大学に移らないかという声がかかったのである。非常勤ではなく専任講師として招きたいということであった。給与や条件について詳しい説明も受けた。今でもよく覚えているのは、給料が三分の一ほど減るということであった。当時の民放の給料がいかに高かったかが分かる。大学の方にも返事をしなければならないが、会社での私の異動をめぐっての協議が先に進んでいたので、私は先ずはその方の結論に賭けたのである。
結論は不可であった。制作局長の説明では、出す方の編成局が応諾しなかったということであった。それから私は本気に大学への転職を考え出した。もしこの時、結論が可なら大学には移っていなかったということになる。大学の人事は、定期採用があるわけではなし、もしこれを断れば二度とチャンスはめぐってこないだろうと思って、招きに応じることに決心した。まさに偶然がその後の私の人生を決めたと言ってもよいだろう。
大学から誘いを受けているという話は、もちろん世話になった制作局長にしたし、直属の編成局長にも話をした。テレビ局で働いて13年、辞めるのは惜しい。大学へのチャンスはまた訪れるのではないかと慰留された。私は決心していたので、我が儘を許していただきたいと申し出た。
当時の私の肩書きは「副参事」であった。職制で言えば課長あるいは係長クラスということであろうか。私が退社を申し出た明くる年(1973年)、恒例の正月人事が発表された。寝耳に水であったが、私が「参事」に昇格していたのであった。部長クラスということであろうか。同期で言えば初めての参事であった。私が3月末で退社することを知っての昇格人事であることは明らかであったので、驚きがあった。中には、大学行きを取りやめて参事で続けることにしたらと冗談を言ってくれる人もいた。参事昇格は、給料が上がり退職金がアップされるので私はありがたかった。そういう計らいをしてくれた幹部がいてくれたことに感謝した。大学に行って肩身の狭い思いをしないようにという思いやりもあったと聞かされた。
仲間の内には、私がどこか飲み屋に借金をしていないか、気を使ってくれる人もいた。もし借金があったら、自分が伝票を処理するからまわしてくれてよいよ、と細かい気配りをしてくれる人がいた。借金は何も抱えていなかったが、そういう気遣いをしてくれる心が身にしみた。
3月末までに何回となくあちこちで送別会を開いてもらった。いよいよ3月末が近づいてきて、最後のお礼を述べるために八反田角一郎社長のところに挨拶に行った。私の挨拶を聞く前にいきなり「おめでとう!」と言われて、私は用意していた言葉が出なかった。そして更に「新しい職場で、何か困ったことがあったらいつでも言うてきたまえ」と激励されたのであった。辞めていく身には心強い言葉であった。

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