第21回 「アゴラ」としてのテレビ

 私がテレビ局に入社した1960年(昭和35)当時は、テレビはまさにニューメディアであった。59年の皇太子ご成婚(現在の天皇皇后両陛下)、64年(昭和39)の東京オリンピック、70年(昭和45)の大阪万国博など、それらの国家的イベントのテレビ中継を節目として、テレビは国民の間に急速に浸透していった。テレビについてのメディア論も活発になされた時期である。
 「テレビとはいかなるメディアと考えるべきか」「どんな社会的コミュニケーションを担っているのか」「テレビが子どもに与える影響とは」「テレビの公共性とは」など、議論は飽きることなくなされたものである。
 プロレス中継での出血を見てショック死した人が出たり、家庭でのチャンネル争いで殺人事件が起こったり、テレビの真似をして重傷を負う少年が現れたり、テレビに関係しての事件が多かった。今ならさしづめケイタイというところであろうか。
 私も放送局の現場にあって、テレビというメディアをどのように考えて、送り手はどういう態度で番組の編成・制作に当たるべきかについて考えていた。1960年代のテレビ局は、ほとんどの番組を自社制作していた。スタジオはいつもフル稼働と言ってもよい状態であった。
 人目をひく有名なスターたちはもちろん、政治家や財界人、学者や評論家、歌手や落語家、漫才師、俳優、芸妓、医師、歌手、僧侶、自営業者、会社員、スポーツ選手、その他諸々の職業の人々がスタジオを行き交っていた。テレビ局は多様な番組を作っていたわけだから、テレビスタジオは、自ずと多様な人々が行き交う場でもあった。
 私は、制作に関係していたわけではなかったが、スタジオの光景を見るのが好きだった。仕事の合間をみては、スタジオをのぞいていた。煌々と明るいスタジオは熱気を帯びて緊張が漂い、フロマネ(フロアー・マネージャー)が出す「キュー!」の合図は、格好よく聞こえ、私も一度はやってみたいと思っていた。
 さまざまなそうした光景に接するうちに、私はスタジオという場が不思議な場に思えてならなかった。これほどにさまざまな人々が行き交う場というのは、現代社会ではテレビ局を除いてはないだろうと思ったのである。
 金持ちも貧乏人も、年寄りから幼児まで、男女の別も無く、社会的な階層や職業にも関係なく、多様な人々が行き交う。そして政治的な左翼も右翼も、イデオロギーで対立しあっている者さえ引っ張り出して議論させる。これはまさに現代における「広場」ではないかと思うようになった。テレビ局は、現代社会において「広場」を作り出している主体であり、適確な「広場」を作り出す責任を負っている主体ではないかと考えるようになった。
 まだメディアが発達をみていなかった時代、例えば古代ギリシャの都市国家においては、「アゴラ」と呼ばれる「広場」があった。古代ローマでは受け継がれて「フォールム」と呼ばれた。
 「広場」は街の中心で情報が集まり、そこは市民の会話と憩いの場となり、祈りや教育、政治討論の場でもあり、またお祭りや市場にもなるというように、市民活動のセンター的役割を果たしていた。「広場」は人々をつなぐ場であり、社会の諸々の活動を中継する「連鎖環」の役割をはたしていたわけである。
 今日でもヨーロッパの都市を歩くと、古くから存在する広場に出くわす。それらは今も尚、憩いの場や市場、お祭り広場や市民集会の広場などとして利用されている。しかし、その公共の「広場」も、コミュニティーの規模が大きくなり、交通網の発達した現代社会では、多数の参加は難しく、自ずと機能が限定されざるをえない。
 近代社会に入ると、アゴラの機能は分化し、それぞれの専門施設を持つようになる。憩いの場は「公園」に、政治討議は「議会」に、裁判は「裁判所」に、市は「市場」に、芸能や芸術公演は「劇場」に、教育は「学校」に、祈りは「教会」でというように分化発展を遂げた。とは言え、今も残る広場は、お祭り的な大集会の場に使われるし、さまざまな市民の行き交う場所となっている。
 こうした「広場」も、人や物、情報を媒介する機能を担っているのだから、私はメディアの一つと考えるのが至当と考えた。印刷系や電気系と区別して、「空間系メディア」として捉えておけばと思ったのである。
 印刷や電気系のメディアが発達した現代社会を考えると、かつての「広場」を担うにふさわしいメディアは何なのかという問題が浮上する。私は、テレビ時代を迎えた社会では、テレビこそが「広場」にふさわしいメディアではないかと考えるようになった。時間メディアとして、その時々の社会を映し出す「社会的コミュニケーション」のメディアとして、テレビを位置づけすることが可能と思えたのであった。
 電波メディアのテレビは、その時代のなかでいかにふさわしい「広場」をつくりだすか、雑多ではあるが、国民がさまざまな情報に触れられる場にすることが重要で、その実現に放送局は責任を負っているのだと考えたのである。
 そんな考え方に立って、テレビ局在職中に矢継ぎ早に論文を書いた。「電波テレビにおける番組制作~テレビ広場主催者論の試み」(『放送倫理情報』 No.91 ,1970年7月)、「ネットワークと編成の論理」(『YTV Report』No.76, 1971年9月)「編成機能の主体確立への道」(『月刊民放』Vol.3, No8, 1972年4月)、「交流のひろばとしてのテレビドキュメンタリー」(『放送朝日』No.224, 1973年2月)などである。
 これらの広場論を、私は大学に移ってから更に追求することになった。移転してすぐに『月刊民間放送』の編集部から連載原稿の依頼を受けた。74年(昭和49)1月号から「送り手ソシオロジー試論」を連載するチャンスが与えられたのである。まさにチャンスであった。講義をしながら毎月8千字程度の論文を用意するのは苦労であったがやりがいがあった。12回の連載で、テレビ局での経験を踏まえた自分なりのテレビ論をまとめることができて一つ脱皮したような気がしたものである。連載原稿を基にして、1975年(昭和50)初めての単著『現代テレビ放送論~送り手の思想』(世界思想社)を送り出すことができた。私の処女出版であった。

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