会社での所定の業務を行いながら、私は大学から非常勤講師の依頼を受け、1969年(昭和44)3月から70年4月までの1年間、関西大学社会学部の教壇に立つことになった。社会学部の「マスコミュニケーション専攻」から、放送現場の経験があって、講義のできる人ということで招かれたのであった。33歳のときである。
担当の科目は「放送学各論」という講義で、講義の準備ができるだろうかという不安もあり、どうしようかと思いながらも会社の許可が得られれば「やってみるか」、と決心して会社に話すと許可が出たのであった。許可が出たらやるしかないと、不安もあったが覚悟を決める。
授業は5限目で午後4時10分始まりであったから、会社を3時には出なければならなかった。週1回の早引きである。これも会社の仕事さえしておればよいという考え方からすれば、余計な仕事を敢えて引き受けたことになる。
非常勤とは言え、大学側の教員審査に合格する必要があった。それには、何か評価の対象になるものが要求される。論文とか著作があるかどうか、制作や報道関係であればどんな番組を作って受賞作品があるかどうかとか、何らかの審査の対象になるものが要求されるのである。
私の場合は、編成部にいて書いた論文が1本あったのでそれを提出した。「テレビ的技法の展開~ドキュメンタリーを中心にして」(『Kyowa AD Review』1968/8)というもので、これまでの生中継の時代、フイルム・ドキュメンタリーの出現、ニュースショーの登場までを分析し、テレビの「同時性」をめぐって、テレビ的技法を考えたものであった。
テレビが他のメディアと相違しての特徴に「同時性」がある。送る側と見る側が「同時」に見てしまうという特徴であり、現場での時間が「現在時間」として見る側とで共有される「同時性」である。この特徴を生かした番組作りの方法とその意義について考えたものであった。
非常勤講師に採用されることが決まったが、問題は1年間何を講義するかである。私は、現場での経験を生かすのが一番と考え、「編成・制作論」というものを考えた。年間30コマ、休講があってもそれに近いコマ数はやらなければならない。1コマ90分の授業だから、用意ができるかどうかである。
初めての講義は、緊張していたのは覚えているが、第1回目の講義をどんな風にして済ましたのかは記憶にない。緊張は講師控え室で待機しているときがピークで、お腹が痛くなり、それでよく覚えているわけである。教室は、社会学部でも一番大きい500人ぐらいは入る101教室が割り当てられて、学生が多いのに驚いた。
現実に講義が始まると、準備したノートの内容がすぐになくなってしまう。講義の要領がよく分からなかったということもあって、事前の勉強の大変さを経験することになったが、元々こういうことをしてみたいという性向があったからであろうか、勉強は苦にはならなかった。勉強を会社でというわけにはいかないので、専ら家でノート作りをしていた。日曜や祭日も家で勉強することが多く、家族にしてみれば、遊びに連れて行ってくれないという不満があったと思う。家内が「ご近所で新幹線に乗ってないのは私とこだけよ」と言っていたのを思い出す。
当時の放送関係の書籍で、今でも思い出すのは、後藤和彦『放送編成・制作論』(岩崎放送出版社、1967)、W・リンクス『第5の壁テレビ』(山本透訳、東京創元新社、1967)、藤竹暁『テレビの理論』(岩崎放送出版社、1969)、萩本晴彦・村木良彦・今野勉『お前はただの現在に過ぎない』(田畑書店、1969)などがあった。中でも後藤和彦氏の『放送編成・制作論』が役立った。NHKを念頭に置いての理論であったが、私は、それを下敷きにして放送局の「編成の論理」を整理し、それに民放の「営業活動」を加えて「編成・制作論」を組み立てた。
勉強のお陰で、論文も書き出すようになった。非常勤講師を勤める間に書いたものとして、「PT化時代の編成とセールス」(『YTV Report』1969/10)と「放送倫理基準と自主規制」(『YTV Report』1970/2)の2本がある。
関西大学からは次年度も引き続いてと依頼されたが、会社の許可がおりなかった。現場の局長までは了解してくれたもののトップの許可がおりなかった。私の将来を含めて、何か心配させるものがあったに違いない。
講師は1年間で終ったが、教えることが自分のテレビ論を構想するまたとない機会となったことは確かである。テレビは、当時で言えばまさに「ニューメディア」で、その急速な普及はめざましく、テレビの「社会的影響」と同時に「社会的責任」についても論じられるようになり、この新しいメディアを「社会的コミュニケーション」のなかでどのように位置づけて考えてゆけばよいのか、学会でも業界でも活発な議論があった。「テレビ低俗論」「テレビ悪玉論」というのもあった。
会社の業務として、私は「考査」を担当していたから、視聴者からのテレビ批判を直接聞く立場にあった。電話で批判を受ける場合が多かったが、時には局を訪ねて見える人もあった。イデオロギー上の、時には社会的差別の問題など、団体からの抗議を受けることもあった。
思い出すのは、「差別用語」の糾弾を受けて集団交渉の場に呼び出されたことである。その当時、そういう「時代の風」が吹いていたということであろうか。局の考査担当としては、もちろん上司に相談をし、解決の方法を見出していくのであるが、「時代の風」をもろに受ける立場にあった。さまざまな応対を経験することになったが、誠実さと忍耐が必要であることを身をもって経験し、同時に「テレビとは何か」を一層深く考えさせられることになった。