私自身は、商売の経験はないが、商家で育ったということが、私に随分と影響していると思われる。後に『大阪の笑い』とか『大阪の文化と笑い』といった本を書くが、私の大阪論は、専ら商人としての父親の影響を受けて出来上がったと言ってよいかも知れない。
父親は大阪の船場商人として、金物問屋の「池芳」の三代目芳兵衛を名乗っていた。店は博労町3丁目にあった。御堂筋の難波神社の近くに店はあった。子ども時代、池芳商店から難波神社に遊びに出かけたことが思い出としてある。四男二女の六人の子どもがいて、私は上に長男長女がいて、三番目の次男であった。
父親は、19才の時に、二代目が亡くなり、若くして三代目を継いで、商売を繁盛させるが、一方で「遊び」にも熱心であった。自在にお金も使ったと言う。放蕩の汚名もかぶせられたらしい。「池芳」の金物問屋の仕事を弟に譲り、自らは家具や室内装飾の仕事を始め出し、今で言えばインテリアの仕事で、センスのいる商いであったが、「遊び」が結構役立ったようである。日本画や俳画をよくし、部屋のデザインなど器用にスケッチする腕を持っていた。書も上手であった。学校は船場商人が通った天王寺商業を卒業しており、英語を読む能力も身につけていた。長男が今宮中学に入学したときに、英語を長男に教えていた。英語が教えられるのかと感心して横で眺めていたのを覚えている。当時の商人としては、教養ある商人と言ってよいかも知れない。博労町にあった本家を弟に譲ってしまい、私の子どもの頃は、今の靫公園のある西区靱上通り二丁目に移っていた。
私が生まれたのは、昭和11年1月7日であるが、生まれた場所は、北区の富田町であったと母から聞いたが、幼くて私の記憶にない。記憶があるのは、靫の家からである。靫幼稚園に2年間通い、西船場小学校に入学するが、勉強は嫌いで、外で遊ぶのに熱心であった。
虫が好きで夏には、トンボ取りに熱中する。家のすぐ近くが永代浜で、材木置き場として使われていたのか、丸太の材木が浮かんでいたのを覚えている。この浜で、トンボ取りをするのであった。近くに仲良しの友だちが一人いて、その彼と遊びはいつも一緒で、ある日、二人だけで永代浜にトンボ取りに出かけた。短い棒の先に糸をつけ、その先にオスのトンボをくくりつけて、それを廻してメスが絡むところを取り押さえるという寸法である。棒はできるだけ河の水面に突きだして、岸壁ぎりぎりのところに片足を乗せ、河に乗り出すようにして、糸の先のオスを廻す。トンボに気がゆきすぎて、足が滑って、わたしは河に頭からドボンとはまってしまった。友だちは助けようとトンボ取りの棒を差し出してくれるが、それに手が届かない。泳ぎはまだ知らなかったが、浮いてばたばたしていたようである。幸い近くで木材を扱っていた大人がいて、駆け参じてくれて、助けられたが、父親にきつく叱られたのを覚えている。それでもトンボ取りの熱中は止まず、空のトンボばかりを追って下が見えず大きな石ころに睾丸をぶつけて大けがをするということもあった。母親が厚く手当をしてくれたが、叱られたのはもちろんであった。
母親からは、私はやんちゃな子で、喧嘩を始めるというと、長い竿だけを持って出かけたのだからと、よく聞かされた。これが小学校1年生で昭和17年頃の話しである。
私は西船場小学校に入学するが、市内よりはより安全な地域へということで、南海電車の住吉公園駅の近くに引っ越しをした。元旅館であったのであろうか、庭も広くて大きな樹もあって、緑に囲まれての大きな邸宅であった。もちろん転校で、2年生で私は晴明丘小学校にかわった。住吉公園から東天下茶屋まで、南海上町線のチンチン電車に乗って通学したのであった。
この家での思い出は、犬が飼えたことであったし、夏には蝉取りが楽しめたことであった。靫の家とは違って、前には公園があって、犬ともよく遊べたことであった。2年になっても一向に勉強に励むことがないので、親が心配をして家庭教師をつけた。しかし、本人にやる気がないものだから、家庭教師が帰った頃を見はからって、帰宅するという有様で、家庭教師の方が、教えるのは無理と諦めてしまった。親から叱られたのはもちろんである。