第17回 番組「考査」の仕事

 「番組企画委員会」という組織が無くなって、私は「編成部」に所属が変わると同時に仕事の内容も変わった。1967年(昭和42)3月のことであった。「番組企画委員会」の発足が1964年(昭和39)6月であったから、企画の仕事は、長くはなかったが、この間に特別に「大阪の笑い」への関心が目覚めたように思う。目覚めたと言うよりも、子供時代からずっと馴染んでいた大阪の「お笑い」が甦ってきたような感じであった。
 現在でもそうだと思うが、大阪で育つと、小さい子供の頃から「お笑い」の洗礼を受けてしまう。「お笑い」好きの親に連れられて、ごく自然に演芸場の雰囲気を体験し、またテレビやラジオで流れる「お笑い番組」を子守唄のようにして成長するところがある。
 私もその類で、子供時代に刻印された「お笑いDNA」は、今日もなお消えることがない。商売人の家庭で育つと、それは一層顕著に残ると言える。店員同士が交わし、また彼らが客と交わす会話を聞きながら暮らしていると自然に「大阪風」を身につけてしまう。
「大阪の笑い」への興味は、「編成部」に移っても変わりはなく、「お笑い」をよく見て歩いていた。と言っても、「編成部」における私の仕事は、「お笑い」とは縁がなく、「笑ってはおれない」別の仕事にあった。
 テレビ局で、「制作」や「報道」、「営業」、「技術」などという部門は、その名称から仕事の内容が大体見当がつくが、「編成」という部門は何をするところなのか、友人からも「編成って何?」よく訊かれたものである。
簡単に言えば、「制作」は個々の番組を作るところであるが、「編成」は半年とか1年先を予定して、どの時間帯にはどんな番組を、どんな方法で放送するか(外注か自社制作かネット受けか、何局ネットでなど)を決めるセクションということになる。編成には、放送に必用なさまざまな情報が集中し、「編成」はそれらの情報の連絡・調整をしながら意思決定の役割を担っていくわけである。
 連絡・調整の任に当たりながら、私に課せられた仕事は、「考査」という仕事であった。入社して初めて配属されたのが「審議室考査課」(モニター)であったが、「編成部」における「考査」の仕事は、以前のものとは全く違っていた。放送法や自社の番組放送基準に照らして、番組やCMが適正であるかどうかの判断を下すという仕事であった。放送番組に対するお目付役である。
 番組・CMの一部修正や、時には番組・CMの放送中止という決定を下さなければならない場合もあった。と言っても私が下すわけではなく、私はその理由を説明し意見をのべるだけで、問題の性質によって、編成部長レベルで決定される場合もあるし、編成局長まで行く場合もある。問題によっては、社長レベルで討議され決定がくだされるという場合もある。しかし日常的には、まず私が判断して上司に報告するという形をとる。
 放送局は、放送法のもとに運用されるから、新聞社や出版社とはちょっと違った組織になっていて、どの放送局にも外部有識者で構成される「放送番組審議会」という機関が設置されている。そこに会社の側が問題を諮問して意見をきくという手続を取る場合もあって、意見が出されれば、「尊重して必要な措置をしなければならない」と放送法は規定している。もちろん、放送法と社の番組放送基準を遵守するという義務は、番組・CM制作に従事する全ての社員に課せられているのだが、それを社内で専門的に行うのが「考査」の仕事であった。
 朝、出勤をすると私のデスクにまず何冊かの台本が積んである。事前に目を通せるものについては、まずは読んでチェックをする。疑問に思ったら、番組プロデューサーに電話で問い合わせる。番組のプロデューサーやディレクター、営業やCMの責任者などが、「放送基準に反するかどうか」と、先方から事前の相談を受ける場合もある。アドバイスをしたり、事前の試写を見て意見を述べたりというのが日常の業務であった。
 番組は「表現物」であるから、どこまでの表現なら許されて、どこまでなら「放送基準」に反するのかどうかの判断は、非常に難しい。自主規制であるから、制作者の意図を十分に汲みながら、それでもここが行き過ぎではないかと、根気よく話し合いをしたものである。業務命令のような上からの命令で、というのならば簡単であるが、自主規制であるから、話し合いを大事にした。
 「放送の中止」という決断をするのは、非常に難しい。「放送基準」に反すると言っても、基準では抽象的にしか書いていないから、何故それが放送に適さないかということが議論になると、考査担当者として、その理由を説明しなければならなくなる。「電波の公共性」「放送の倫理」「テレビの公共性」「テレビの影響論」などに遡って、放送の是非を論じたものである。頭の痛い仕事ではあったが、すごく勉強になった仕事であった。