番組の企画の仕事はとても楽しかった。要望があれば、クイズ番組であろうと、ホームドラマであろうと、連続テレビ小説であろうと、何でも企画書を書かなければならないということがあったが、私は考えることが好きだったし、書くことも苦にはならなかった。何よりも楽しかったのは、材料収集のために「雑学」ができたことである。
クイズ番組やホームドラマ、視聴者参加番組など、いろんな企画書を書いたが、採用されたものは1本もなかった。スポンサーに企画提案する際の複数候補のなかに滑り込んだことはあるが、本命になったことは1度もなかった。それでもひょっとして採用されたらという胸のときめきはいつもあった。企画の楽しさはこのときめきではないかと思った。
大阪らしいドラマを考えようと、制作部にいた同僚たちと研究会をもって、企画作りをしたことがあった。千日前の発達史を背景にして、お笑い芸人の物語の構想を考えたのである。
先ずは、千日前の歴史から勉強を始めだした。道頓堀は江戸時代から芝居の五座がそろう繁華街であった。それに対してほんの僅か隔てた千日前が、刑場と墓場であったとは信じられない思いであったが、その千日前が今日のような繁華街にどのようにして発展をみたのか、面白い事実が次々とでてきた。そして明治に入ってからの上方落語の歴史、幕末から明治になって人気を呼んだという俄の芝居など、芸人たちの面白い話が尽きなかった。
研究会では手分けをして、資料を漁りノートをとり年表を作ったりして勉強を重ねていった。雑誌『上方』(1931年創刊、1944年終刊、全151冊)を初めとして、大阪の芸能に触れた歴史書にもずいぶんとお世話になった。
思い出すと、研究会に桂米朝師匠、小松左京氏、永六輔氏などをゲストに招いたことがあった。ご本人たちは覚えておられないかも知れないが、演芸全般の歴史、面白い人物列伝など、ゲストの博学には驚嘆させられたし、大いに刺激を受けた。「貴重な雑学」とも言える幅広い勉強ができたことがありがたかった。
そうした勉強会を重ねて、ドラマ・シナリオの作成に入って、確か3回分位までシナリオ化をはかった。『笑魂』と題名をつけたものであったが、遂にそれは日の目を見ずに終わってしまった。企画が実るということが、とても難しいことがよく分かることになったが、収集した資料や勉強の成果は手元に残った。私にとっては制作部に「お笑い」を共に語る同志ができたこともありがたいことであった。。
私の企画の仕事は、1967年(昭和42)3月の機構改革で「番組企画委員会」がなくなって終わった。その間、私の提案は1本の企画も実現しなかったが、企画は、創造と想像の力量が問われる仕事であるが、同時に実現する行動力がないと日の目をみないということがよく理解できた。
千日前の歴史や大阪の芸能史を勉強していくなかで、私の大阪への関心が一段と目覚めていった。ホール落語にも顔を出し、角座やなんば花月、うめだ花月や新世界花月などの演芸場もよく見て回った。寄席めぐりをするなかで、それまであまり思い出したこともない子ども時代のことを思い出すことになった。これは不思議な感覚と言うべきだろうか。子ども時代に父親に連れられて行った寄席が思い浮かぶのであった。終戦前はどこの寄席だったかは明瞭でないが、終戦後は確か「戎橋松竹」であったと思う。戎橋松竹の戦後の開場は昭和22年であるから、私が中学生であった頃になる。長い間忘れていたものが甦ってきた思いであった。そう言えば、家には初代桂春団治のレコードもあった。夕食が終わってから、父親が「ちょっと春団治の落語でもきこか」と子どもたちに声をかけるのである。そういう生活があったのだ、子どもを連れて寄席に行くというのも、普通の生活のなかにあったんだ、ということを思いだしていた。
親が子どもを演芸場に連れて行くということ、それは子どもにとってはまさしく体感であったので、深く印象に刻まれたのだと思う。今のようにただテレビで見たというだけでは、簡単に忘れ去られてしまうであろうが、体感するということで、大阪の「お笑い」が私のなかに何かを残したのだと思われる。
今日の子どもは、幼いときからテレビに馴染んで育つから、親は子守り代わりにテレビを使い勝ちであるが、子どもはそれで全てを見たという錯覚を起こす。テレビに写ってないものは、知らなくて当然という感じになって、実際の現実への認識を欠いてくるという現象が起こる。現実世界は、こんなに広くてテレビに写らない世界が一杯あるのだということは、親なり祖父母が子どもを外に連れ出して体感させる必要がある。
テレビが写す「お笑い」は一部に片寄っていて、テレビで知って全部を知ったように思うのは危険である。また現実の寄席空間の再現は、テレビでは不可能であり、子どもに現実の寄席空間を体で感じ取る経験を与えておくことがとても大事なことと言える。現実経験の記憶は、持続して残るが、テレビ視聴の体験は、あまりに日常化していて、次から次へと忘れられて行ってしまう。