第15回 「営業」から「番組企画」へ

 組合の初代書記長を引き受けてしまったばっかりに、たった1年しか経たない間に、年月をかけて経験するであろうさまざまな経験を一挙にしてしまった感があった。身体も酷使していた。1962年(昭和37)の春になって、酷い口内炎に見舞われた。ものが喉を通らないという、殆ど何も食べられないという状態になった。原因は過労と栄養失調ということであった。栄養失調と聞いて驚いたが、組合活動での外泊が続き、まともな食事をしていなかったのが原因のようであった。暫く休暇をとって静養することになる。
 会社の仕事は、モニターから企画事業課に移って、スタジオでの公開放送の観客を集めたり、番組で募集した懸賞募集の抽選をして当選者に連絡をとったりのような仕事をしていた。1963年(昭和38)5月に機構改革があって、モニターの仕事は営業局に移った。それと同時に私は、またモニターに復帰し、暫くその仕事をしたが、すぐに営業の外勤にまわされることになった。
テレビ営業の外勤というのは、スポンサーに番組とスポット(厳密には時間)を売るために、広告主と広告代理店を回って歩くことが仕事である。今日では、販売業務はすべて広告代理店を通じて行われているのであろうが、私の営業時代は、広告主に直接出向いてセールスすることもあった。「井上に外勤は勤まるのか」と心配をしてくれる同僚もあったが、私は別に違和感もなく現場に溶けこんでいった。仲間には、広告代理店や新聞社などの営業経験者が多かったから、私のような外勤は珍しかったかも知れない。
 得意先で交わす会話は大阪弁であるのだが、いわゆる商人の使う大阪弁で、得意先を訪問すると、まずは「まいど!」の挨拶から始まる。この「まいど!」も私には何の抵抗感もなかった。私は、大阪商人の家で育ったから、商売人の家庭環境は子どものときから馴染んでいたせいであろう、商いの現場に入ると、商人が使う大阪弁がすらすらとでてくるのであった。
 私は後に『大阪の笑い』とか『大阪の文化と笑い』といった著書を出して、大阪商人のことについて論じているが、私自身が営業活動を実際にしたのは、このテレビ局での営業だけである。この営業体験は、1年間で短いものであったが、私自身は父親の手伝いで商売に触れていた体験も重なって、面白く過ごせたのを覚えている。この体験は、後に「大阪」について考える材料を与えてくれることになったが、何よりの収穫は、放送局の「営業」について知ることになったことである。番組やスポットの値段がどのようにして決まり、スポンサーから局にどのようにしてお金が入ってくるのか、広告代理店の役割など、それらは営業の現場にいて初めて分かることばかりであった。民間放送は、スポンサーからの広告収入が財源で、民間放送を理解するのには、表には目立たないこの営業活動を理解する必要があることが、よく分かったのであった。
 商いを通じての人間関係の面白さを知ったのも営業活動からであった。代理店と広告主を訪ね歩きながら、いろんなタイプの担当者と出会ったが、不思議と気の合う人が出来ていくのである。もちろん、何となく波長が合わない人とも遭遇するが、取引は取引であって、その上に人柄と人柄の関係が生まれていくのであった。そうした関係は、私が他の部署に変わってからも続き、大学に転出してからも続いていった。
 営業の仕事が面白くなり出していたとき、私に番組企画の仕事をしないかと誘いがかかった。局に新しく「番組企画委員会」という組織ができて、そこで番組企画をやらないかという誘いであった。元々番組の制作や企画をしたいと思っていたので、私は喜んで移ることにした。しかし、僅かな期間ではあったが、親身に世話をしてくれた営業の先輩達には不義理をするようでつらかった覚えがある。私をテレビ営業マンとして教育してやろうと期待をかけてくれる上司もあったのである。
 番組企画というのは、誰が提案したかというよりも企画内容そのものの優秀性が問われるので、企画はいろんなところから寄せられる。とは言っても責任をもって、必要に応じて提案する部署は「企画」や「制作」、そして発注を受ける外部のプロダクションあるいは代理店ということになる。
 番組企画委員会は、1967年(昭和42)3月に廃止になり、2年9ヶ月の運命であったが、私にとっては大変充実した期間であった。要望された企画書が書けるようにということで、小説を読むのも映画や芝居をみるのも、演芸場に通うことも全く自由であった。ありがたい期間であった。
 大阪で何か番組企画を考えるとなると、大阪の「お笑い」に通じている必要があった。大阪のお笑いタレントは、舞台で漫才や落語を演じていても、番組の方からすると、ドラマ俳優であり、司会者であり、レポーターであり、クイズ回答者であり、コメディー俳優でありと、さまざまな役をこなしてくれるタレントであったのである。大阪では、「お笑い」を知らないでは、企画ができないと言っても過言ではない位に「お笑い」の比重が高い。この状況は、今日でも変わりないのではないか。従って、いつの時代でも、大阪では「お笑い」タレントが次から次へと育っている必要があるのである。