1961年の夏、初めての「夏期手当闘争」を経験して、「要求を勝ち取る」とは言うものの、会社の壁がいかに厚いものであるかを、組合員は初めて実感する。不発のエネルギーは残り、それはそのまま次の「年末手当闘争」に引き継がれることになる。もちろんこうした背景には、他の民放の「年末闘争」が活発に進行していて、その影響を受けて読売テレビの活動もあったということはある。朝日放送の年末闘争では、組合は盛り上がり、スト権行使でラジオ、テレビともに停波するという事態が起こった。全国的に見ても、この年はテレビ創生期の「大荒れの年」となった。
読売テレビでは、本給×4+25000円=98380円を要求して交渉に入った。今日とは比べようがないが、この額の獲得が容易ではなく、スト権を樹立して初めてのストライキを打った。スト通告の書類を作り、会社に手交するのは書記長の私の役割であった。通告をした初めての時は、労働者の権利行使ではありながら、この通告で本当に職場放棄が可能になるのかと、信じられない気持ちであった。スト権は「伝家の宝刀」と言われ、本当は抜かないで決着がつけば、一番よいのであったが、いったん抜いてしまうと、それに頼るようになってしまうのも事実であった。
交渉の決裂が続けば、会社に対する闘争手段がエスカレートしていかざるを得なくなる。組合員の士気が盛り上がり、対決をエスカレートさせていくと、ストによって番組と広告の全ての放送をできなくする、つまり停波に会社を追い込むということになる。朝日放送の場合は、実際に停波してしまったのであった。
読売テレビのストライキは、11月に入って、波状的に時限ストが打たれピケも強化されていったが、交渉は難航し、12月7日には、全面24時間のストに突入してしまう。ピケラインは厳重に張られ、夜は道路上にドラム缶を使ってかがり火を焚き、寝ずの番をして持ち場を守るという、まるで戦国時代のような、ものものしさであった。というのは、あの手この手を使ってのピケ破りを警戒したからであった。
振り返ってみただけで、あんなことがよくぞ行われたと感心してしまうぐらいに、組合員は燃えていた。これまでに鬱積していた不満や抗議の感情が吹き出たと言ってもよかった。「私たちは正しい要求をしているのだ」という自信に満ちていた。私自身にしても、正義感に走り、恐い者知らずという感じであった。
組合員の熱気は高かったが、読売テレビの場合は、東京キーステーションの日本テレビの番組が生駒の送信所へ送り込まれるという「垂れ流し」放送になり、大阪ローカルの番組と広告は飛んでしまったが、日本テレビの番組がそのまま放送されて「停波」には至らなかった。
「垂れ流し」放送は、12月10日から始まり、団交は持たれるが進展なしで、12月12日に組合は全面無期限ストを打った。最後の手段である。そうしておきながら地労委に斡旋を申請した。会社も斡旋を受けることに同意し、交渉の場が地労委に移った。斡旋は12月14日に始まり、公益委員を前に、双方が事情を説明するわけであるが、組合側の説明は専ら書記長の私にまかされた。途中で何回も休憩を挟むが、その日は徹夜になり、15日の昼になって、地労委の斡旋案が出された。組合はその日のうちに臨時大会を開催し、斡旋案を受諾。翌16日午前0時をもって全面無期限ストを解除。222時間15分という民放の組合始まって以来の大ストライキを敢行してしまったのであった。
斡旋案では、手当の増額もあり、休日協定や専従協定の要求も認められたが、「申し合わせ事項」というのがあって、会社は組合に対して一切の責任を追及しないが、今回の争議に関し「陳謝文」を書くということが条件に入っていた。つまり詫び状を書かないと、幹部の責任を問うということを意味していた。組合としては、当然の権利を行使してきたわけだから、何故詫び状を書かねばならないのか、という議論になるのは当然である。
私は「詫び状」が今後の組合活動を制約するものになるのかどうか、その点を特に心配した。斡旋の経過の中で、専門の弁護士に相談をしたが、そういう性質を持つものではないという確認を得て、私は「詫び状」を書くことに同意した。これで争議が集結できるし、犠牲者を出さなくて済むという、最も警戒していたことが避けられるのだからよいではないか、という気持ちであった。臨時大会は、大きなスタジオを使って、午後8時から開かれた。説明は専ら書記長がすることになった。質疑応答も書記長、怒鳴られ叱られするのも書記長の役割であった。
一番揉めたのは「陳謝文」の件であった。正しいことをしてきて、何故詫びなければならないのか、執行部は間違ったことを指導してきたのか、というまさに正しい意見が噴出した。詫び状の話しを聞いて一層闘志を燃やす人もあった。
私にとって、この終結大会の説明役は、一つの試練になったと思う。組合員の言い分が正しくて、にもかかわらず、詫び状を書かざるをえない理由を明らかにしなければならなかったのである。苦しくて難しい場面であった。組合員の方でも、意外な報告を納得するのには時間が必要であった。深夜に終結大会は終了した。