第13回 労働組合の結成

 読売テレビに就職した1960年(昭和35)当時、読売テレビ局には労働組合がなかった。大阪の民放局で、既に組合があったのは、毎日放送と朝日放送だけである。後発の読売テレビと関西テレビには、未だ組合がなかった。会社の設立は1958年(昭和33)8月であり、テレビという新しいメディアに取り組み、社員は毎日の番組制作に追われていた。現場では、週1度の休日も満足にとれず、時間外労働は際限なくあったし、組合のある毎日放送や朝日放送と比べると、給料もボーナスにも大きな差があった。
 テレビの仕事が何よりも好きという連中が大半で、若さにまかせて仕事に没頭していたが、彼らとて、いつまでも不規則での長時間労働に耐えるのは難しく、中には体調を崩す人もあった。多くの人が、組合結成の必要を感じながらも実際に結成に漕ぎつけるのは容易でなかった。社内では、過去に一度そうした結成の動きがあったが、会社側からの介入でつぶされたという話しが流布していた。
 しかし、労働条件を良くし、賃金を他社並にするためには、やはり組合の結成が急がれる、いつまでもこのままの状態では良くないと感じている社員は多かった。私もその内の一人であった。先ずは結成をはかる準備会を組織する必要があった。情報を絶対に洩らさないようにという趣旨で「石の会」という名の会が作られた。私もそうだが文学部出身の者が大半で、労働法など法律の類など読んだことのない連中ばかりであった。従って先ずは組合結成の根拠、法律の勉強などから始め、先輩に当たる朝日放送や毎日放送の執行委員から話しを聞いた。
 「石の会」は、信頼のおける有志に働きかけ、メンバーも少しずつ増えていった。私は昭和35年入社で3期生ということになるが、2期生も1期生も混じっての秘密結社的なグループができていった。廊下で仲間と会っても、仕事で関係のない者同士が話し合っていると、怪しまれるから素知らぬ顔をするようにとか、そんな気の使い方をしていた覚えがある。
 準備にどれだけの時間を費やしたのか定かな記憶はないが、長い時間は危険で早く結成すべしという考えがあった。結成大会は、昭和36年(1961)4月21日(金)、桜宮公会堂で行われた。北区岩井町にあった会社から桜宮公会堂は遠くはなかったが、バスをチャーターして会社前から走らせた。小雨が降っていたのを覚えている。仕事を終えた人は、どんどんとバスに乗って欲しいということにして、午後7時から大会が始まった。
 役員候補は事前の準備会で用意されたものであったが、私は書記長に選ばれてしまった。入社して日も浅い私がどうして書記長をしなければならなくなったのか、準備会の一員ではあったが、先輩の1期生も2期生もいるではないか。そんな気持ちがあって、自分が書記長に選ばれるなんて、考えてもいなかったのである。結成を目前にしての準備会で、役員候補を決めなければならず、委員長候補になった1期生の人が何故か私を書記長にと望んだのである。そうまで言われるなら「やってみるか」と決断はしたが、書記長がどんな立場の役職なのかもよく自覚しないまま引き受けてしまうことになった。
 結成大会の4月21日は、民放の経営者が年に1度集まる「民放大会」の日で、会社幹部の殆どが東京出張で社を留守にしていた。私たちは、幹部がいない日を選んだのであった。幹部がいたら、即座に妨害が始まると考えたからである。何しろ社員は、会社との何らかの縁故関係があって入社している人が多かったので、「組合に加入するな!」の圧力は予想しておかなければならないことであった。私自身も紹介された縁故のお蔭で入社試験が受けられ合格していたのである。この幹部が留守の間の結成は、後々まで「泥棒猫」のようだと言われたが、結成大会には加入率72.4%(縮刷版『民放労連』)を確保し、組合は無事にスタートをきることができたのである。
 結成大会では、今から思えば当たり前の「祝祭日の完全公休化」「休暇の完全消化」「賃金体系の明確化」などがスローガンに掲げられていた。組合ができると、職場の空気が変わりだした。職場集会が開かれ、これまで閉ざしていた口を開くようになったのである。時期は夏に入り、夏期手当の要求案作りが始まった。
 学生時代は、どちらかと言えば文学青年で、同人雑誌の発行経験はあっても、運動団体の経験は何もなく、1年少しの社歴の人間が、書記長の任を果たさなければならないことは、余りにも荷の重いことであった。よくその任を果たせたとすれば、組合結成に燃えた時代の空気がそうさせたと思わざるをえない。
6月に入ると、東京の日本テレビに組合が結成され、10月には関西テレビにも結成されるなど、各地の民放に組合が結成されて行き、時代の中での燃え上がる高揚があった。その影響を受けていたことは確実である。
結成されて間もない組合が初めて会社と丁々発止の団体交渉をすることになるのは、その年の夏期手当闘争であった。初めての賃金の要求であった。『民放労連』(縮刷版)71号によると、その時の組合要求は「本給×4+2万」で95000円。会社回答は「本給×3.2」で61565円となっている。この差をめぐって交渉が行われたが、組合は初めての交渉で、団交を応援するために大勢の組合員が廊下で座り込むなど、大いに盛り上がった。だが「他社水準への到達」目標が果たせず、要求が簡単に通らないことを実感せしめられ、課題と同時にエネルギーも持ち越されることになった。