今日では、新卒の就職となると、3回生の春頃から始まっているようである。昔だったら経済界と大学側との「就職協定」というのがあって、就職試験は、まがりなりにも夏休みを越えてからであった。とは言うものの企業側の「青田刈り」が横行し、「就職協定」は有名無実となって廃止され、学生の就職活動は年間を通じて、いつでも行えるようになった。
4年制の大学では、3回生の春で決まろうが4回生で決まろうが、早く内定する学生は、4年間を勉強に費やせるが、決まらない学生は、1年中就職活動で振り回されるということになる。これも経済の景気に左右され、好景気の時は、内定も早くでるが、不景気の時は就職難となって、学生は会社訪問で奔走、勉学は後回しとなる。そうなれば、1年間とは言わないまでも、4回生の前半は全く授業に出てこられない人達が増える。ゼミ生数が少なかったら、もうゼミは開けず休講状態が続いてしまう。
私が現役教授でいた時は、就職難の時でもゼミは開講していた。25人ぐらいのゼミで、出席者が2人とか3人、時には一人という日もあったが、時間があったら顔を出すようにと言っていた。就職活動は一人きりになって会社訪問するケースが多いので、孤独に陥って気が滅入ってしまうことがある。せめてゼミで顔を合わせてもらいたい、とそんなことを話していた。卒論の仕上げは、学生が一番よく勉強をする時である。その4年生が、最後に手を抜いてしまうことになると、教育的には大きな損失となる。
1960年(昭和35)3月に、私は大学を卒業する。その当時の就職活動は、3回生の夏休みが過ぎてからであった。私は文学部であったので、まず求人が少ない。進路としては、大学院に進学するか、高校の先生になるか、新聞社やテレビ局、出版社などのマスコミに進むかという程度で、一般の企業からは殆ど求人がなかった。これらの求人には「学校推薦」何名といような条件がついているところがあった。テレビ局が大体そうであった。学校推薦は、成績順かと思っていたら、学部事務所の前でジャンケンで決めていた。のんびりした雰囲気であった。
私は、新聞社と放送局を数社受けたと思う。気持ちは放送局の方にあった。朝日放送の学校推薦はジャンケンで負けて受けられず、会社の縁故を探して推薦をしてもらう必要があった。読売テレビは、最初から縁故の推薦者を求められ、推薦してくれる人を探すのが大変であった。私は商売をする父親に縁故を探してもらった。朝日も、読売も見つかって、やっと試験が受けられたのであった。競争率が何倍であったかは忘れたが、人気は高く、相当な倍率だったと思う。
縁故で試験を受けていると、一番先に合格発表があった会社に、即座に返事をしなければならなかった。朝日放送も最終面接まで臨んでいたが、読売が一番早かったので、読売テレビに入社がきまった。
私は親からこれ以上の面倒は見かねると言われていたので、何が何でも就職しなければと思っていた。今日のような親のすねをかじる「フリーター」や「ニート」(卒業後進学せず、就職せず、家事もせずという若者)などは考えられもしなかった。
私には、もともと大学院への進学意欲はあった。私の指導教授で、社会学の臼井二尚先生のところに相談に行った。先生の答えは明確で、「大学院に進んで研究の道を歩むのならお金がいる。アルバイトをせずにやっていけるのか」という問いかけであった。私は「お金はありません。親からは期待できませんのでアルバイトをしなければなりません」と答えたら、「それなら就職しなさい。大学院は学問をするところで、アルバイトをしているような時間はない」と厳しく諭されてしまった。学問への道は厳しいものだなと思った。実際にはアルバイトをしていた院生もいたが、私は何も反論せず、素直にその言葉を受け取った。親からは、面倒を見るのは卒業までと言い渡されていたので、アルバイトなしでの進学は不可能であった。
会社のこともある程度分かってきた3年目位であったと思う。研究への思いが募ってきて、今は亡き池田義祐助教授(当時)の自宅を京都に訪ねた。これから大学院で勉強したいと思うのですがという相談である。池田先生はやさしい先生で、私の言葉によく耳を傾けてから、当時の大学院の状況を説明されたのであった。社会学の博士課程を終えても今は就職がなく、オーバー・ドクターが大勢いるというのが現状で、学問すると言っても生活の目処が立ちませんよ、と聞かされた。池田先生は、私がテレビの現場で仕事をしていることを生かして、現場で勉強する方法もあると、私に現場の価値を説いて下さった。そこで、私は進学の思いをさっぱりと断ち切って、職場に帰っていったのである。将来自分が大学で教えるなどとは、夢にも思っていなかった。
その当時、テレビはまさにニューメディアで、日の出の勢いで成長し、社会的影響力の強いメディアとして脚光を浴びていた。「テレビとは何なのか」と、さまざまなテレビ論の展開があった。私自身もテレビの現場で「テレビとは何なのか」を問うていた。
テレビ局では、考査課をふりだしに事業、営業、番組企画、編成といった部署を回り、組合では書記長、執行委員などを経験していた。いろんな経験と思考を重ねながら、私はその思考を論文に書いていた。幸い、読売テレビは『YTVレポート』という業界研究誌を発行していて、それに寄稿のチャンスがあった。それに民間放送連盟が発行する『月刊民放』という雑誌や朝日放送発行の『放送朝日』という雑誌からも寄稿のチャンスが与えられた。エッセイや論考を、チャンスがあれば書いていた。仕事をしながらの執筆であったが、自分の考えが活字になることが楽しく、それがまた仕事への励みとなっていた。そうした私の論考が、大学関係者の目に触れていたのであろうが、私は知るよしもなかった。