第10回 キャンパスでの出会い

 『ネリパ』の読書会では、日本の作家では野間宏、椎名麟三、安部公房などの現代作家のもの、外国ではショーロホフ、ロマン・ロラン、バルザック、D・H・ロレンスなどの長編小説、評論ではルカーチ、サルトル、マルクスなどを取り上げた。読書会は、私の下宿であるいは喫茶店でやり、議論がつきなかった。終わりを知らないと思えるほどに議論した時もあった。今思い出すと、やっぱり若さがそうさせたのだろうと思われる。
 私の好みとしては、ルカーチが気に入っていて、ルカーチの文芸評論や芸術論に親しんだ。私は戯曲にも興味を示し、ギリシャ悲劇からシェークスピア、モリエール、イプセン、チェーホフ、テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラーなどを読み漁っていた。3回生になって、哲学科の社会学を専攻し、卒論に「芸術社会学」を選んだについては、『ネリパ』時代の読書会が影響したものと思われる。
 同人雑誌については、諦めがつかなかったのか、私は就職してからも試みている。読売テレビに就職したが、会社の中でまた同人雑誌を出すことに意欲を燃やし、4人の仲間と語らい『西戎』という雑誌を発行した。私は評論とテレビシナリオを書いている。第1号が1963年(昭和38)1月29日の発行で、1966年(昭和41)3月に第3号を出して終わった。高校の時から同人雑誌を作って「創作」を夢見ていたのであろうが、「創作」は夢で終わってしまった。しかし、副産物はあった。テレビの研究や評論の文章を書く機会が訪れたとき、私は進んで原稿を引き受けて書いた。書くことに興味こそ覚え、苦痛にはならなかった。テレビ局から大学に転職する切っ掛けになったのも、そうした論文を書いていたからであった。
 今もL2の同窓会となると独語の先生であった佐野利勝先生をお招きしているが、私はこの先生に59点をつけられて、3回生には仮進学となった。そんな記憶も重なってだが、佐野先生がテキストに採用したマックス・ピカートの論文が強く印象に残っている。そのおかげで、卒業後に先生翻訳の著書は次々に買い求めていた。『騒音とアトム化の世界』『人間とその顔』『われわれなかのヒトラー』『沈黙の世界』『神よりの逃走』(いずれも、みすず書房)などである。
 大学のクラブ活動では、私は京大観世会に入って謡曲を習っていた。1回生の時、バスケットボール部にも入ったが、その年の夏の合宿に参加して、体力的にとてもついて行けないことを知って辞める。謡曲は、私の父の影響だと思われる。子ども時代に受けた稽古が甦ったような感覚があり、竹生島での合宿に参加をし、琵琶湖に向かって声を一杯に出す快感に酔ったのであろうか、稽古を続けることになった。師匠は片山慶次郎先生であった。
 1985年(昭和60)に、関西大学から在外研究員の資格をもらって、1年間、アメリカのインディアナ大学で研究する機会が与えられた。その時、知人で芸術学部で能について発表する人がいて、謡が出来ないかと聞かれ、少しならと答えてしまった。卒業以来、練習などしていないにもかかわらず、少しなら、とうっかり答えてしまったのである。「何とかなるか」と度胸を決めて、職員や学生の前で謡うことになった。教授達は大変喜んでくれて、私は面目をほどこしたわけである。どこで何が役に立つか分からない。
 3回生で、文学部は哲学科、史学科、文学科の3科に分かれ、更にその下の専攻別に分かれて行く。専攻は全部で33あったが、学生は120名であったから、中には学生よりも教員スタッフの方が多いという専攻もあった。
 私が社会学を選んだのは、社会学を学びながら創作ができるのではないか、創作に社会学が役立ってくれるのではないか、そんな虫のよい考えに基づいていた。社会学専攻に所属して、社会学の講義を受けてみると、「社会学は社会学者の数だけある」と言われ、これは勉強しにくいなと思ったが、境界がはっきりせず、何でも研究できそうな曖昧さが自分には適しているのではないかと思え、社会学が気に入ってしまった。その時の教授は、臼井二尚先生、助教授が池田義祐先生であった。
 臼井先生のゼミは、学部生と大学院生とが一緒であったし、社会学全体の教室行事もいつも、学部と院との参加が求められた。「生活共同の場」が大事という考え方であったと思うが、私はそのおかげをこうむっていた。卒論のテーマや指導では、院生とオーバードクターの先輩にお世話になった。
 臼井先生は、頭の先から声が出るような、自分が面白いと思うと一人で笑ってしまうようなところがあって、面白い先生であったが、怒ると頭から湯気が出るぐらいに真剣に怒る先生であった。1986年(昭和61)の春、アメリカでの在外研究から帰国して、その報告をと思って家内を連れて、吉田の神楽岡にある先生の自宅を訪ねた。自慢のステレオを聴かせてもらったり、大事とされていた珍しいスライドを披露して下さったり、好々爺の先生であった。先生は1991年(平成3)3月に他界、享年90才であった。せめてもう一度お訪ねし、謦咳に接しておけばと悔やまれた。