第1回 大学を定年退職して

 先ずは、定年退職の報告から。2003年の3月に、30年間つとめた関西大学を定年退職した。私は大学を卒業後、読売テレビ放送に就職、37歳の時に関西大学社会学部に転職した。1973年の「オイルショックの年」であった。会社生活を13年間経験して、それから30年間を大学で過ごしたわけである。こんなキャリアを持つ教員はそんなに多くはない。大学の場合は、大学院を終えて助手なり講師をつとめて助教授、教授と言う風に、アカデミックな世界の中で生涯を過ごす教員が圧倒的に多い。そんな中では私は異色の教員であったのかも知れない。
 94年に、関西大学は高槻に全く新しい学部として、総合情報学部という学部を設立した。私はその学部作りの準備からかかわっていたので、設立と同時に新学部に移籍することになった。学部を作ると、次に大学院修士課程、そして博士課程を順次作っていくことになり、その全てが整って私は退職することにした。67才での引退である。
 関西大学では、規則上は65才定年になっており、1年ごとに更新して70才が上限となっているが、私は引き際のタイミングがきたような気がして、3年早めて辞してしまった。
 大学での研究・教育、学内行政はけっこう忙しいもので、大学では年を取ったからと言って、教育の持ち時間が減るわけではない。大学には、大企業に見られる定年間際の「窓際族」という存在はない。むしろ年を取るほどに大学院の授業や修士や博士の審査も加わり、却って忙しくなるのが普通である。振り返ってみると、私は大学の外の仕事もけっこう忙しくこなしてきたようで、67才は忙しさのピークにあったと言えるかも知れない。
 学外の仕事は、大学を退職したからといって縁が切れず、今日も続いているものが多い。
 大学とも縁が続いて、今もなお非常勤講師として総合情報学研究科で「情報メディア論」という講義を担当している。退職してからも原稿執筆や講演の機会は変わらず、「日本笑い学会」の会長職もあって、生活環境の激変というものはない。家内に言わせると、激変があったという。給料が入らなくなったことである。それは確かに激変だが、忙しさは変わってないようだ。
 忙しいとは言っても現役時代と心の持ち方が変わったのは確かである。気持ちが軽くなったという感じがある。この感じは、さながら「ご隠居さん」の気持ちというものかも知れない。昔の人が「はよ若いもんに譲って隠居したいわ」と言っていたのは、こういうことを言っていたのかなという思いがしている。
 私の父は大阪の商人で、商人の理想の生き方についてよくこんなことを言っていた。若いときには一生懸命に働いて、財を築いたら早々に若い者に店を継がせ、自らは隠居をして、趣味や特技を生かした文化活動や社会活動を行うというものである。しかし、現実は厳しくて、父親は財も残せず、息子たちは誰も店を継がず、「隠居の身」を味あわずに逝ってしまった。
 江戸時代の上方文化の隆盛については、隠居たちが学問、芸術文化を発展させ、隠居の存在が欠かせなかったと思われる。私の父親は、そんな「隠居」を夢見ていたのであろうが、果たせずじまいであった。現役を退いて、私の脳裏に浮かんだのは、そんな「隠居」のイメージである。振り返ってみて気がつくのは、私は大学の外でも忙しくしていたことである。
 大学では学部と大学院とで別々に講義とゼミを持ち、その傍ら「お笑い番組」の審査委員をしたり、「日本笑い学会」という学会を立ち上げたり、大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)の館長を務めたり、また長年に渡り大阪市社会教育委員の仕事をするとか、大阪府立東住吉高校に「芸能文化科」を立ち上げるとか、大学の外の仕事も多かった。
 これまでに書いてきた著書も、専門のメディアとコミュニケーション関係の本と笑いと大阪に関する本が並立している。テーマを絞れば「メディア」「笑い」「大阪」の三つになろうか。三つとも私が大好きとするテーマである。
 私の中では、全てのテーマが関連し合い融合している。その融合の網の目をひもときながら、私が「笑い」に強い関心を持つに至った経過や日本笑い学会のこと、そして今「笑い学」を提唱する意味など、「笑い」や「大阪」、「メディア」や「コミュニケーション」のことを、自伝風に語ってみようと思う。自伝であれば、やはり私の子ども時代にも触れておきたいし、大学のこと、学生のこと、家族のことなどについても書いておきたいと思う。
 歴史的事実は年表に当たるとしても、個人の出来事については、忘れていることが多く、覚え違いがあるだろうと思われるが、ご容赦願いたいと思う。