笑い塾④失敗は面白いから犬も笑う

 先日、自宅の近くに新しいホテルが建った。建物の垂れ幕にはオープン記念のサービス料金が宣伝されていた。家内に「新しいホテルだし、泊まってみたいね」と、つぶやくが、自宅が近くにあっては、泊まりようがない。家内が「あなただったら泊まれるかもよ」という。
 私には前科があるのだ。数年前に、大阪から終電車で帰ってきて、家に入れずホテルに泊まったことがあるのだ。玄関のドアーをいつものように開けようとポケットを探ったが鍵が出てこない。チャイムを鳴らし電話をし、ケイタイをかけたが、内からは何の反応もなくて、遂に入れず。仕方なく近くに1軒だけあるホテルまで歩いて、泊まることになった。前金を払って、シャワーを浴びて午前一時半頃にベッドに入ったとき、家内からケイタイがかかってきた。「もう一時半よ。どこにいるの?」というが、私はもうベッドのなかで、「今更帰るわけにもいかんしな」とそのまま寝てしまう。
 自宅の前に立って我が家に入れないのは情けない。ホテルで宿泊料金を払って泊まるなど、全く馬鹿げたことである。朝早く起きて、家内に言われたように朝食用のパンを買って帰った。早朝の帰宅というのは、こういう感じになるのかなと、昨夜からの自分の行為を映写するかのように思い返すと笑い出してしまった。まるで泥棒が入るかのように家の周囲を歩き回っていた自分、二階の明かりのある部屋に小石を投げる自分、そのうちにご近所の犬が吠えだしてうろたえている自分、朝食のパンを買う自分。まるで喜劇映画をみているようで、笑ってしまった。
 私は子供のころからよく忘れものをした。母親から預かった手紙の投函を忘れて、ポケットのなかに数週間も眠らせるというようなことをよくやった。親は叱るよりもあきれ果てて笑うしかないという風であった。失敗は面白いから、人から笑われる。私はどちらかと言えばよく笑われる少年だった。失敗をして人が笑っていたら、自分も一緒になって「面白い奴だ」と自分を笑っていたようだ。
 ジェイムズ・ヒルトンの小説に『チップス先生さようなら』(菊池重三郎訳、新潮文庫)というのがある。映画化も劇化もされ、笑いと涙を誘った作品で有名である。英国の全寮制で有名なパブリック・スクールで60余年の教師生活を送り、親子3代を教えた経験を持つチップス先生の話。3代目に当たる少年を教えていて、クラスのみんなの前で言う。
「—–お祖父さんはな、ラテン語の絶対奪格が最後まで分からずじまいだった。つまり頭が悪かったんだな、君のお祖父さんという人は。ところが、君のお父さんはその壁ぎわの向こうの机にいつも座っていたんだが——ま、似たり寄ったりというところだった。しかしだ、わしの考えで、これだけは絶対だと思うんだが、ね—–コリー君や—–君は—–あーム—–3人のうちではズバ抜けて頭が悪いよ!
ゴーッと起こる哄笑。」
 皆はコリー君の方を見て笑ったであろうが、コリー君も一緒になって笑ったに違いない。
(2009年7月) 

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