笑い塾⑩十時半睡のユーモア

 私たちは通常「笑い」という言葉で、笑いに関するさまざまな現象を言い表しているが、一方で「ユーモア」という言葉も使っている。ユーモアは英語のhumorを日本語化したものだが、「笑い」と共通した意味を持ちながらちょっと違った意味を担っている。
今回は、そのちょっと違った「ユーモア」について探索してみたい。きっかけはケーブルテレビの「時代劇チャンネル」で再放送(2009年11月)された「十時半睡事件帳」(全23話)を見たことにある。
 「事件帳」は今から1994年から95年3月にかけて、NHK「金曜時代劇」で放送されたものの再放送である。最初の放送も見たし、再放送も見て、今回は3度目である。原作は白石一郎、主人公の十時半睡を演じているのは新国劇の名優島田正吾である。島田正吾は2004年98才で死去し、このテレビドラマは89才での出演である。15年も前に放送されたドラマだが、物語性もカメラワークも音楽も全然古く感じられない。島田の老熟した演技は何度見ても味がある。事件解決後は大体決まって島田の独酌シーンで終わる。この一瞬に人生の幸せがあるかのように、実にうまそうに杯を傾ける。
 十時は藩内で総目付の立場にあって、解決が難しい事件の相談に応じている。個人が相談に及ぶケースもあるが、多くは若い目付衆から持ち込まれる。対立やもめ事は、互いの主張に折り合いがつかず平行線を辿ることで生じる。たとえ両者に理があっても、解決はみなければならない。大した事件でもないのに世間が騒ぎを大きくする場合もある。
 第3話の「刀」では、勘定奉行の息子が若侍同士の喧嘩から刃傷ざたになり、父親は息子に腹を切らせ、自らは辞職を願い出て、佩刀は竹光にして真剣を不要と提言する。その提言をめぐって藩内は、竹光派と真剣派に別れて議論が沸騰。険悪な空気が生まれ出す。侍社会においては、いくら天下太平とは言え「刀は武士の魂」。ではどうすべきか。若い目付衆に対して彼は「うやむやにすることだ」という。若侍はびっくり仰天。黒白をつけない「うやむや」にする解決法など彼らには思いもつかないわけだ。でも何も手を打たないわけにはいかないから勘定奉行を「謹慎一ヶ月」として、「後はほっとけ」である。奉行の処分は誰の目にも甘く見えるが、騒ぎの波は自ずとひき、奉行も立ち直れる。黒白をつけてすっきりさせるだけが能ではないというわけである。
 第9話の「人まね鳥」では、現代にもそっくり当てはまるような教育ママが描かれる。亭主は自らの家格を卑下し、「父親のようになるな」という女房の教育に抵抗もできず、劣等感を抱いたまま趣味の魚釣りに明け暮れている。十時は、教育ママを叱るのではなく、劣等感に甘んじて堂々と胸を張って歩かない父親を叱る。父親が胸を張って夫婦が仲良く過ごせば少年は「ほっとけ」なのである。父親の立ち直りで家庭に平安が戻り少年も立ち直る。目先の騒ぎから距離をおき、世間体や定法にこだわらず、人間の真情を見抜き、緊張・対立を和解に導くのは、まさにユーモアの精神と言える。(2010年1月号)

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