大阪市中央区にある玉造稲荷神社と言えば、大阪からお伊勢参りをするときの出発地で、
有名である。古い神社なので、いろんな碑が建っている。「伊勢迄歩講起点碑」「豊臣秀頼公奉納鳥居」「千利休居士顕彰碑」「大坂三十三所巡り第十番札所碑」などがあるが、新しいところで「秋田実笑魂碑」というのが建っている。秋田実は、少し年配の人ならご存知だと思うが、「漫才の父」とも言われた人で、今の「しゃべくり漫才」の原型を創った漫才作家として著名である。今の若手漫才の「しゃべくり」も、当人たちが知っているのかどうか分からないが、秋田が目指した「しゃべくり漫才」の伝統の上に開花していることに間違いはない。
「しゃべくり漫才」の典型を舞台で演じた最初は、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビだったと言う。彼らは昭和5年(1930)にコンビを組んだ。初舞台は、大阪市内の玉造にある三光館という寄席であった。エンタツは、洋服を着てロイド眼鏡にチョビひげ、アチャコも洋服で、楽器や張り扇などは持たず、二人はジェスチャーと「しゃべくり」だけで万歳を演じた。当時は、観客席の大半は着物姿で、漫才師も着物で三味線や張り扇をもって、面白い会話の合間に、民謡や音頭などを演じるのが「万歳」と思われていた。観客からすれば、エンタツ・アチャコの万歳は異様に映り、「ほんとうの万歳をやれ!」と野次られ、みかんを投げつけられたりしたという。
しかし、時代は確実に動いていて、二人の万歳が受けるようになっていった。エンタツは昭和6年に秋田と出会い、二人は意気投合し、新しい漫才「しゃべくり漫才」を創造していった。当時の「万歳」が「漫才」に変わっていくのは、昭和8年頃であったが、ラジオの普及とも見合って、言葉だけの「しゃべくり漫才」が発展し、普及していくことになった。
秋田は、玉造稲荷神社の近くで生まれ、境内などで遊んだという。その昔、玉造界隈には寄席もあって、「お笑い」にゆかりのある土地柄で、昭和52年(1977)に秋田は亡くなり、その功績を讃えて、玉造稲荷神社に「秋田実笑魂碑」が建てられた。友人の吉田留三郎、弟子のミヤコ蝶々、夢路いとし、喜味こいし、秋田Aスケ、秋田Bスケ等が尽力した。
笑魂碑には、「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と秋田の言葉が刻まれている。秋田は、自らを「漫才作者」と称していたが、笑いの大切さを折に触れ説いた人でもあった。秋田が亡くなった翌年、昭和53年の春に私は「笑学の会」を立ち上げ(後に「日本笑い学会」に発展)、その会で秋田の著作整理を申し出て、暫く秋田家に入り浸りになって整理作業を行った。その成果の一部を本にまとめるべく、三女の林千代さんに手伝ってもらい、エッセイや講演録から抜粋して一冊の本になったのが『ユーモア交渉術』(創元社、1984)である。中味は「話術とユーモア」「ユーモアを育てる」「商は笑なり」といった内容で、私自身多くを学んだし、今もなお読み継がれて良い本だと思うが、絶版なのが惜しまれる。(2010年5月号)