笑いには、本当に面白くてお腹をかかえて笑う場合もあれば、他に注意がいっていて、顔だけが笑っているという場合がある。抱腹絶倒というのは、笑いが止まらないほどに笑っている状態で、その笑っている「最中」を考えれば、ただただ笑っており、他に雑念が浮かぶことなく、我を忘れ、心を空っぽにしてという「無心」の状態である。
演奏家がステージで、鍛え上げた曲目を無心に演奏する姿には、感動させられる。ピアニストにしてもバイオリニストにしても、全て暗譜で、というよりも体の一部のようになった楽器を自在にひきこなす。音楽に全ての注意を集中し、音楽が自分であり、自分が音楽であるかのような一体感を実現する。このときの演奏家の意識は、全て音楽で統一され、雑念が片時も入る隙がない。音楽は流れており、もし瞬時でも雑念が起これば、音の流れに変事が生じるであろう。見事な演奏は、日ごろの鍛錬の中で、まさに身体そのものが動きを身につけてしまっているということであろう。
今はバンクーバーの冬季オリンピックを目指して日本の代表選手が続々と決まってゆき、テレビはそれを伝えるのに忙しい。オリンピック連続出場のベテランもさりながら、初出場という新人が現れるのも楽しみだ。
私は、女子フギュアー選手権の中継をよく見た。素敵な音楽とともに氷の上を流れるように滑るフギュアーは、華麗で美しい。時々の失敗にはらはらさせられる場面もあったが、一連の流れを華麗に演じきった選手は感動を与えてくれる。中でも私は、女子フギュアーの鈴木明子選手の動きには目を見張った。彼女の「最中」に惹きこまれてしまうのだ。
音楽と一体になった緩急の流れ、スピード感に満ちた華麗な身体の動き、頭の回転、カメラが時折迫って見せる顔の表情、鈴木の大きな黒い目、無心の踊りの中で、その目が光って笑っているのだ。この微笑は、無心の踊りの中で自然に出たものに違いないと思った。訓練のなかで身につけたものが溢れ出て、彼女が意識していない、自分を超えた自分が演技をしているのではないか。緊張を越えての演技ではなかったかと思わせられた。
インタビューで彼女が語っていたことだが、子供のときからスケートが得意で、成長と共に数々の賞を取っていくが、途中で「摂食障害」におちいって、試合からも遠ざかってしまった時期があったという。スケートを止めたときに、自分がどれだけスケートが好きかということが分かって、メダルを取るとか狙うとか、そんなこととは関係なく、好きなら徹底してやりぬこうと決心したという。私は、この言葉に感心した。多くの選手たちは、「メダルを目標に」「金メダルを取りに」とか、語る人が多い。確かにそれは目標として、日ごろの励みを支えているのかも知れないが、鈴木明子は、そういう世俗的な目標を超えて、好きな道を楽しんでいるようである。氷上の「最中」はまさに彼女の最高の楽しみの時間なのであろう。「最中」の魅力的な微笑はそこから出てくるような気がしたのである。 (2010年3月号)