産経新聞 関西笑談9

産経新聞 [2004年08月4日 大阪夕刊]

【関西笑談】笑いを学問する(9)関西大学名誉教授 井上宏

聞き手 荻原征三郎記者

◆不思議な効用を広く考察

 荻原 笑いのある社会は高度に成熟した社会である、とはたしかに含蓄のあるお話です。

 井上 大阪の商人は笑いながら会話をするのが好きなのも、成熟社会のあかしといえると思うんですね。交渉事も笑いを入れた方が本音で話ができるし、終わっても気持ちがいい。だから大阪弁の特徴を生かして柔らかく話を進めたり、面白い言葉の言い回しなどが工夫されてきました。「謎式(なぞしき)洒落(しゃれ)言葉」というのをご存じですかな。

 荻原 難しい言葉のようですが、なんでしょうか。

 井上 「あんたは春の夕暮れ」はケチな人のこと。暮れ(くれ)そうで暮れ(くれ)ない。冷やかしの客は「夏のハマグリ」。身(見)腐って貝(買い)腐らん、見るだけで買わない冷やかし客といった調子です。

 荻原 それならわたしも知ってます。あいつはふろ屋の釜(かま)や。ゆ(湯)だけ、言うだけで実行しない。

 井上 大阪にはこのような表現がたくさんあり、今でも漫才の掛け合いで使われます。大阪商人の生活の知恵でしょうが、一般社会でも笑いの恩恵をいっぱい受けています。みなさんの会社でも会議などで意見が対立し重苦しくなった経験があるでしょう。そんなとき、だれかが機転を利かせ笑わせてくれたら、それをきっかけに話が前に進むこともあるのです。みなが声を出して笑うことでなんとなく以前の話を蒸し返せないような雰囲気になるからです。笑いの不思議な作用のひとつで、わたしは笑いの「親和作用」と呼んでいます。

 荻原 自分を無にする「無化作用」につづく笑いの作用、効用ですね。そのように「笑い」を考察するなかで「日本笑い学会」を組織したのは平成六(一九九四)年で、以来、会長を続けていらっしゃる。また上方芸能の発信基地となる大阪府立「ワッハ上方」の館長もお務めになった。

 井上 「お笑い学会でっか」という人もいましてな。それはともかく、「笑い」という日本語は笑うという行為から笑わせてくれる刺激や原因まで、笑いにかかわる現象を一言で言い表します。「お笑い」は漫才や落語、喜劇、それにテレビのお笑い番組などをイメージする言葉です。学会では、お笑いを含めて笑いを幅広くとらえています。人間はなぜ笑うのか、笑いの機能・効果といった問題から洒落、ジョーク、ウイット、風刺、ユーモアなど笑いを起こさせる表現まで広く研究課題にしています。総会の研究発表も活発ですよ。ワッハ上方にはお笑い関係の貴重な資料がいっぱいありまして、会員にとっては大事な施設ですね。

 荻原 人間はなぜ笑うのか、考えてみると本当に不思議ですね。

 井上 「笑い」は高等動物の霊長類にあって初めて見られるもので、笑いの感情というものは実に高等な感情であるわけです。笑いが人間にとって必要な能力だったからこそ、進化の過程で残ったとも言えましょう。ではなぜ必要かということです。まず生まれた以上は元気に生き延びなければなりません。これは個体維持のための至上命令です。そこで大事になるのが笑いのエネルギー。笑いと自然治癒力は深い関係があるんですよ。健康を守るにはそのエネルギーが必要ということです。また人間は独りでは生きられません。生きるためには他人との関係を良くしなければなりません。そこで緊張を和らげる笑いの作用が重要な役割をはたす。調整材になるのです。