産経新聞 関西笑談6

産経新聞 [2004年07月31日 大阪夕刊]

【関西笑談】笑いを学問する(6)関西大学名誉教授 井上宏

聞き手 荻原征三郎記者

◆緊張感を和ませる潤滑油

荻原 商人の町大阪は「ヨコ型社会」、武士の町江戸は「タテ型社会」、笑いひとつとっても大きな違いがある、とは実に含蓄のあるお話です。

井上 上下関係が厳しく、そのうえ「男は歯を見せるもんじゃない」などという武家社会の影響があるのでしょうね。タテ型社会の笑いには独特の距離感が存在します。落語を例に考えてみましょうか。江戸の落語には「滑稽(こっけい)噺(はなし)」もありますが、「人情噺」などのじっくり聞かせるタイプのものが多いです。だから噺家の話術もじっくり、しんみり型になるのです。派手でにぎやかで、おもろくてなんぼ、舞台と客席を笑いで一体化させようという上方落語とはずいぶん違いますね。

荻原 お話をうかがいながら思ったのですが、上方の落語家には江戸のような「真打」というような肩書はないようですが。

井上 そうなんですよ。前座、二つ目、そして真打というランクは上下関係の厳しい江戸ならではの階級制度でしょう。上方にも一門制度はあっても、お客を楽しませてなんぼの世界だから、真打だなんぞと威張っているより、お客をどれほど笑わせるかが決め手になる。こっちのほうがどれほどか厳しい。実力本位の社会ですからね。

荻原 上方のお笑いには、これでもか、これでもかといったところがあってサービス精神が旺盛(おうせい)です。

井上 笑いには緊張感を解く重要な潤滑油の役割があるのです。共に笑うことで双方の距離を近づけ、笑いは場をなごます。家電店でテレビを買いにきた客が「ついでにテレビの下の台もつけといてぇな」と言います。すると店員は「そんなことしたら、台なしでんがな」と泣きを入れてみせる。駆け引きの場は商売人にとって勝負の場面でしょうが、笑いや冗談、しゃれを混ぜることで緊張を和らげる。これこそが大阪商人でしょう。

荻原 関西生活何十年のわたしですが、今になっても大阪弁の微妙なニュアンスが理解できないこともあります。こう言われたが、ほめられているのか、おちょくられているのか、結構悩むこともあるんですよ。

井上 さきほど「な」や「ねん」についてお話ししましたが、少し付け加えましょう。「勉強せんかい」と言えば非常に強い命令形ですね。しかし「勉強せんかいな」と、語尾に「な」をつけることで命令形でもやわらかな命令形になる。「な」は語感をやわらげる働きをさせる助詞で、こんな言い方は大阪弁以外に多分ないでしょう。怒りながらも相手との距離を近づけ親密感をもたせる、そんな仕掛けが大阪弁にはあるわけです。

荻原 なるほど、そううかがうと大阪弁は実に奥が深い。

井上 もうひとつ例をあげましょう。頼みごとや商談などで「考えときまっさ」という返事が返ってくる。イエスともノーとも取れるあいまいな言葉として大阪商人の常套(じようとう)句のようにいわれます。たしかに文字にすると、否定に近いニュアンスか可能性があるのか、分かりにくい。実際の会話ではその場の雰囲気からかなりの本音を知ることができます。言葉のやり取りのなかで、相手の表情、言葉の抑揚などから真意をくみ取れます。「言え」の例でもお話ししたように、大阪弁には実に多くのバリエーションがある。まさに口の文化です。