産経新聞 関西笑談3

産経新聞 [2004年07月28日 大阪夕刊]

【関西笑談】笑いを学問する(3)関西大学名誉教授 井上宏

聞き手 荻原征三郎記者

産経新聞 関西笑談3 ◆謡や小唄は大阪商人の常識

荻原 お父さんが大阪学の原点だった、とおっしゃいましたね。

井上 商売人だった父親の生き方を見たり聞いたりすることで、大阪商人の身の処し方がわかったように思います。ですから「大阪」を語ったり考えたりするとき、どうしても父親がでてくるのです。とにかく芸達者な人でした。謡、小唄、長唄、踊り、俳句、俳画なんか結構器用にこなしていましたよ。

荻原 すごいレパートリーですね。

井上 今から思えば不思議なことですが、とくになにかに熱中するとか、落語に出てくるだんな衆のように商売そっちのけで芸事にのめり込むといった感じではなかったですよ。さらりとそこそこの芸を見せていたように思います。

荻原 ということは、大阪商人にはそれくらいの芸事を身につけることは常識だった、ということでしょうか。

井上 大阪でそこそこの商売をやっていくには、そこそこの芸事をこなす必要がある、ということなんでしょうかね。父親の時代の接待は西区の新町あたりのお座敷が普通だったようです。わたしも同席させられたことがありますが、お座敷ですからねえ、きれいどころや三味線も入るわけですね。ならば小唄や端唄のひとつも、となるでしょう。そうなればまね事でもちょっとはやらないと場がもたないし、なんと無粋な人となるわけですよ。芸のひとつもできないと大阪では商売はやっていけない、という雰囲気になっていたんでしょうね。商いのために必要だったとはいえ、大阪商人の教養の水準は結構高かった。

荻原 ゴルフか、食って飲んであとはカラオケという今時の接待とは水準が違いますね。

井上 たしかに粋でしたね。しかし、主人だけが遊んでいたわけでもなかった。父親も、「今年の花見は京の醍醐寺や」とかいって従業員や家族を連れて繰り出していました。秋にはマツタケ狩りです。なんやかんやと、結構みんなでにぎやかに楽しんでいたように思います。

荻原 わたしにとっての大阪商人は山崎豊子の小説などでしか知りませんが、戦前はともかく戦後もそういう雰囲気だったのですか。

井上 父親の商売も戦前ほどの華やかさはなかったけれども、戦後もそうでしたよ。わたしを新町に連れていったのもそのころでした。少なくとも昭和三十年代まではそんな雰囲気が残っていたように思いますね。

荻原 東北育ちのわたしの大阪商人像は「がめつい」の一語だったのですが、大阪で船場の経営者とお会いすると、まったく印象が違いました。話し方が上品で話題も豊富です。お父さんのことをうかがってなるほどと得心しました。

井上 大阪や上方を語るときに作られた神話、ステレオタイプ化したものがあります。レッテルは外から張られるんですね。映画やテレビなどで描かれている大阪は型にはめられたところがかなりある。「がめつい」や「ど根性」「もうかりまっか」なんかも外からはられたレッテルで、大阪商人の実像とはまったく違っています。綿々と続いてきた骨太の商人精神をゆがめてしまったと思いますよ。

荻原 実に興味深い話題です。もっと詳しくうかがいたいものです。

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